彼の願望、彼女の誘惑1
「俺、婚約者辞退するわ」
夏休みが終わったからしばらく経った日に突然言われた言葉。
固まって、しまった。
「好きな人ができた。だから、さよならだ……桃瀬」
そういって綺麗な瞳を細める貴方の笑顔は、
あまりにも、残酷だった。
「会長が女と歩いてた」
そんな噂が聞こえてきたのは彼が離れていった数日後だった。
あら、好きな人と付き合えたの、よかったね。
そう心の中で悪態ついて。
“候補”とかいううっとおしい人が1人減ってよかった。
もっと関わりたかったのに。
矛盾した気持ちが自分の中でぐるぐると回る。
「鹿央の女子らしい」
へぇ、会長のことだから大人しいお嬢様と付き合ってるんだろうな。なんて、まだ分かりきってないくせに知ってるかのような口ぶりで。
教室に入ると蓮と目が合った。
私を心配するような瞳。
……何を心配してるんだか。
「ひよこ」
蓮の耳にも入っているんでしょう、あの噂。
『おはよう。“ゲーム”の対戦相手が減ってよかったね?蓮?』
これは“ゲーム”だと晴信さんは言っていた。
そう、所詮ゲーム。会長はリタイアしたにすぎないんだから。
「……それでも難易度の高さは変わんねぇよ」
なんて、皮肉気味に彼は笑った。
私の気持ちが変わんなければ、攻略不可能なゲームなんだって、彼は笑う。
……心配してくれてるのはわかってるよ、話をそらしてごめんね。
祭りのあと、蓮には話したんだ。
ふーちゃんは、信頼できるから。
基に遊ばれていたってことを、全部話した。
だから、恋愛感情はわかんなくても“大切”になるかもしれない人に裏切られたことを心配してくれているんでしょう?
放課後になれば蓮が「送っていく」と言って私の横に立った。
……別にいいのに。
寮なんて学校の隣だし。
『バイトは?』
「今日は夜中だけだから大丈夫だ」
男ばっかだから心配だって、引いてくれずしぶしぶ承諾した。
学校を出てすぐ、寮の中に入って部屋の前まで送ってもらった。
『えーと、ありがと』
「……無理すんなよ」
隣の、307号室のドアにちらりと視線をやってから私を見た。
だから、大丈夫だって。
そんな、気にしてない。
……気にしてないし。
エレベーターへと向かう蓮の背中を見送ってから自分の部屋のドアを閉めた。
『……あ』
そういえば、蓮に浴衣返してない。
クリーニングに出して戻ってきた頃には講習終わってたから会うことなかったしなぁ。
……今なら追いかければ間に合うかな?
浴衣一式の入った大きな紙袋を持ち上げて部屋を出た。
エレベーターを待って、降りて玄関を出た頃にはもう周りに蓮の姿はなかった。
……走って帰りやがったな、あの男。
仕方ない、家まで届けよう。
1回行ったことあるから大体の道は覚えてる、たぶん。
あの日の記憶をたどって蓮の家へと向かう。
待っててね、千絵ちゃん俊太くん!!
目的が変わってる?気のせい気のせい。
あ、そうそう。ここの公園のところを曲がって――……
道を曲がろうとした瞬間、公園の方から鈍い音が聞こえた。
驚いて公園の方を見ると、目に入ったのは転がっているたくさんの人。
この制服は……清風高校?
うわ……怪我してる。大丈夫かなぁ……?
喧嘩?
喧嘩ならまだ人がいるよね……この人たちを気絶させた人が……
ダメだよー子供が遊ぶ場所で喧嘩なんて……!
こっそりと公園の中を覗くと見覚えのある人が立っていた。
力なくされるがままの人の胸ぐらを掴んで、今にも殴りかかりそうな体勢をとっている。
……それ以上殴ってどうすんの!?もう相手気絶してるっぽいし!
『蓮!やっ……やめなよ!』
大声を出して彼……蓮を制止する。
私の声に気付いた蓮がゆっくりと顔をあげる。
視線が絡んだ。
冷めた瞳。
私は後ずさりしたい気分になる。
怖い。
蓮じゃないみたいだ。
クラスの人とのふざけたじゃれあいなんかじゃなくて、
祭のときみたいに優しい怒りなんかじゃなくて、
冷めた、心のないような喧嘩。
蓮は何度か視線を逸した後に私の名前を小さな声で呟く。
『これ……全員蓮が……』
倒れている人は10人以上いる。
意識を取り戻した人が蓮を見て怯え、近くにいる人を抱えて逃げていくのが目に入る。
「……」
蓮が手を離せば、掴まれていた人はやはり気絶していたらしく崩れ落ちた。
『……会長?』
見覚えがある人だと思えば崩れ落ちたのは、会長で。
会長を蓮は冷めた目で見下した。
全然状況がつかめない。
どうして、こんなことになっているのか?
えぇと、状況からして……
会長が清風高校の人たちと一緒になって蓮に喧嘩を売ったってこと?
蓮、自分から喧嘩売ることはないはずだし……
どうして?
「ひよこはどうしてここにいんだよ」
いつもとはどこか違う蓮が私をちらりと見た。
『……浴衣、返そうと思って家に行こうとしてたんだけど』
「……あぁ」
蓮の伸びてきた手を避ける。
蓮は怪訝そうな表情を見せた。
『蓮、怪我してるよ……手当て、しようよ』
彼は目を見開いたあとに、馬鹿にするように笑った。
ゆっくりと、蓮の手が私へと伸びてくる。
肩を掴まれて、私はびくりと体を震わせた。
「……怖いんだろ?俺が」
寂しそうに笑った蓮の手が私から離れる。
無理しなくていい、そういって私に背を向ける。
反射的に蓮の腕を掴んだ。
今度は驚いたのか蓮の体がびくりと震える。
『怖くない、から……お願い……』
手当てをさせてよ。
違う、怖くない。
君を悲しませたくないよ。
お願い、泣かないで、ふーちゃん。
泣きそうな顔、しないでよ……
「……」
何とも言えないような顔をして、蓮は会長を掴んだ。
「どうせ“これ”も連れてくとか言うんだろ」
ほっときゃいいのにこんなやつ。不満げに蓮が言った。
会長が恋人つくって婚約者辞退をしたことだけで蓮がここまでするなんてありえない。
……何があったのかは後で聞こう。
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