「貴方があんまり遠くへ行くので忘れてしまったじゃないですか。」














好きな人が、いました。きっと俺のことだからまだ好きなのでしょう。でも何故か、その名前も顔も上手く思い出せないのです。何故敬語なのかって、そう話さないと彼に失礼なような気がして。じゃあ俺の好きな人は先輩なのか。



「確か、凄く沢山のものを見ていたような気がする」



その人は。表情はなかなか冷めていて観点も冷めていて、その肝心の目さえも冷めていた。そのクセ俺やみんなをよく見ていた。蹴りの角度が小さいだとか昨日は早めに帰っていたとか。彼は何だかんだで俺達を気にかけて目をかけていたのかもしれなかった。
そうそう、あの目が好きだった。と言おうとしてあの目とは一体どの目なのか。駄目だ、思い出せない。



「おいおい、そんな奴のこと思い出してどうするんだよ?」
「…あなたのこと、忘れたくなんかないんですよ…」
「現に忘れてるじゃないか、もうそれでいいんじゃない?」
「……」



まるで俺の頭の中にしかいないみたいなその人は笑った。笑いにも種類があってその笑いはそんなに愉快な種類のものじゃなかった。そうそう、よくこんな風に笑ってましたよね。
俺が言うと、その人はいつもより鍵盤を叩く力が弱いと指摘した。よく見ていますね。そうじゃなくて。



「ねえ」
「ん」
「あなたは俺を覚えてるんですよね」
「…まあ」
「じゃあ何で何も教えないんです」



ピアノの音が止んだことに眉をひそめたようだった。こんな気持ちで弾いていても全く、集中出来るはずもない。



「あなたは誰ですか」



何故だか俺は泣きそうな声で乞っていた。しっかり自分の二本足だけで立っていた筈の俺は、ぐらぐらと揺れてながら必死に願った。嗚呼!あなたは一体誰なんですか誰なんですか!
その人はうやむやな俺のイメージを纏わせふわりふわりと遊ばせ、首を困ったように傾けた。実際困ってなかったのかもしれない。彼は。駄目だ思い出せない。



「止めろよもう」
「なあ気づかない?本当に?気づいてないわけ?」
「もういいよ、毎日毎日」
「飽きただろうよ」
「もういいよ、お疲れ様」
「お前のことが好きなお前の好きな人は、」



顔を赤らめもせず笑いもせず笑えもせず大好きなその人はそこまで叫んだ。声が強張って裏返っていた。あなたらしくないなあ。あなたらしさって?



「今、ここで」
「駄目だ!」



沢山の目が、一気にこちらを向いた。今まで俺をずっと見ていてくれた『特徴的で大好きな目達』。キャラメルの、甘い不思議な目の色がゆらゆらと燃えている。光が反射して、光っている。嗚呼あなたがいる。
俺は痛いと言われかねない強さで彼の手首の辺りを掴んでいた。勿論思い出せない彼を掴むことなんて出来なくて掴んでいる感触すらないが、俺は必死だった。



「自分を殺すだなんて、何てことを」
「いいだろ!?俺はお前のものじゃない!それでいいじゃないか!有耶無耶なまま終わればお前は俺を忘れ、その鍵盤にもボールにだってきちんと向き合える!好きな女だって幸せな家庭だって」



望めるんだぞと言った彼が、泣いていた。嗚呼。やだな。これは、やだな。あなたは涙なんて知らない人で、それで、
やだな、やだなやだな。あなたの泣き顔はやだなあ。あなたは、あなたの思うままを生きてほしいのに嗚呼。
そして俺の手がふいに感覚を拾った。その感覚は魔法から解かれるように、元々あったものを返すように。涙が伝う輪郭がはっきりしてきた。



「…み、」



彼は静かに涙を流しながら、俺の言いかけた口に人差し指を当てた。『静かに』、の意味と取ろうとしたのだが彼の指は違った。そのままするりと、指が、綺麗な指が俺の唇をなぞっていく。ぞくりと、した。唇の縁で指が止まり少し長い爪が柔らかい肉に食い込んだ。



「愚か者め」
「、み、な…み、さわさんは、違うと思います、」
「どうなっても知らないぞ」



呪いのような魔法は解けました。
ところで回帰線に乗り込めたようです。
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