きっと少し前の俺であったなら、こんな風にしおしおと引き下がらないだろう。あの、まだ無知で馬鹿だった、それからとても餓鬼だった俺ならきっと。
それがそうならなかったっていうのは、俺も成長してしまっている証拠だ。
俺は誰にも邪魔されたくなくて、場所に無人になった教室を選んだ。必ずしも誰も来ない保証が無い場所を選んだことについては触れないでおく。趣味は自嘲っていうわけではないし。



「といっても…何をすりゃあいいんだ?」



少し寂れた教室の雰囲気に流されて小さな大人しい呟きを落とした。こんな事をするのは初めてで、一般的に考えてもそう考えて実行する人は見たこともない。余計どうすればいいんだか。取り敢えずあの人の事を思い出せばいいのだろうか。
頬杖をして窓の外に目玉だけ寄越す。

ファーストコンタクトは何時だったかな。ああ、入部テスト…いや違うな…。あれは、入学前のテレビだったなあ。あのヤケに網膜に焼き付いた紫に、すいと手を伸ばして追い掛ける権利と環境が欲しくなったんだ。今じゃ捕まえてもいい権利を本人に頂いたわけだけど。
嗚呼そうだったなあ。改めて思い返せば下心だらけの入部だったなあ。そりゃサッカーは元からするの好きだったし、それに越したことは無いけど。



『よう、悪いんだけどそのガムくれる?』
『…え、え?』
『腹減って死にそう』
『はい?』
『恵んで』



初会話はこんなだった気がする。それをきっかけに(ポジション的にも)俺達の距離感がどんどん縮まっていった。最初はあの人を追い掛けて追い付いて並んで、それを見計らったみたいにまたスルリと走っていって、それの繰り返しだったのに。
今じゃ、『今』じゃもう



「特別な関係結んじまってるもんな…」



『今』、この一文字が意外と効いた。ツンと、何かがせり上がりそうで促したのは俺なのに悔しくなった。
距離感が小さくなって気がついたらあの人の、南沢さんの腕に閉じ込められるようになっていた。何時の間にか、それに嫌悪感を抱かなくなっていた。
気がついたら、もう遅かった。
頬杖する手に生暖かいものが零れて漸く泣いていることを自覚した。頬杖を解いて一回拭ってみる。頬の筋肉と一致が浅いまま、またポロポロと涙が落ちていく。二回、三回四回と拭っても追い付かない。



「…どーしよ、マジ泣きだ。これ」



涙は既に机の加工された木の色を変えた。
虚しくなって未練を見たような気がしてまた悔しくなった。ずずっと鼻を啜った。
今も、きっと泣き止んでからも断ち切った後でも俺はあの人が大好きなんだろうと思う。でも少なくとも形は断たないといけない。そうして俺は今此処にいるんだ。
恋人なら、相手の幸せを思ってこそ相手を愛しているのだと言える。(少なくとも俺はそう考えてる)『ずっと自分が』幸せならそれでいいというのは通用しない。



「南沢さん…」



湿った声で呼ぶ。これくらい許してほしい、もう、泣き止んだらもう、呼ばないことにする。もう甘えないことにするから。
誰に向けたのかも分からない懇願が無意識に転げ出た。


最近になってからだった。南沢さんが俺にとてつもない執心を向けていたのだと気付いたのは、本当に最近だった。
でもそれなら合点がつくことが沢山あった。
俺が何となく寝付けないときはいつも、いつも電話に出て話を聞いてくれる。勉強もよく教えてくれるし小さな記念日だって覚えてる。寂しいと言えば抱き締めてくれる。

では一体何時、 南沢さんは自分の時間を取っているんだろう?

もっと早くに疑問に思うべきだったのにまた気がつくと、疲れて眠る彫刻みたいな南沢さんが保健室にいた。保険医は疲れが溜まってたみたいねと言って俺に笑ってきた。一瞬その笑いが嗤いのように見えて目を逸らした。
ポロポロ水滴が机に当たって小さく飛沫を散らす。俺は今でもあの彫刻のように表情を動かさなかった南沢さんの表情を忘れていない。しかもよくよく聞いてみればあの人は以来、徐々に保健室の使用頻度を増やしていったというじゃないか。あの人は俺を甘やかして自分を削っていたのだ。何て馬鹿なんだ迂闊なんだ!あんた、そんな迂闊な性格してなかったろうに。
そう、確かに言ったら、あの人は何と言ったと思う?
『お前が幸せならそれでいいんだ』
だと。
勿論罪悪感しか生まれなかった。想いの大きさだけを見たらそれは凄く幸せな話だ。ハッピーエンドだ。現実から離れたくてそんな風にも一瞬考えた。でもそうじゃない、そうじゃあなかったんだ。



(このまま俺と一緒にいたら、あの人、きっと駄目になっちまう)



南沢さんが堕落していく様を、またそれを蔑視の目で見られていく様だなんて見たくなかったんだ。涙がすっかり止まらなくなっていく。もう拭うこと止めた手は弱々しく組まれている。
ああそうだよ。こう、考えよう。これは、あんたを好きなままでいさせてほしいからするさよならなんだ。



「はは、大分我が儘だな」



今なら、嗤われてもいい。寧ろそうされても可笑しくないことをしようとしているんだし。それが正しいんだろう。
涙が落ちる頻度が、段々少なくなった。もう排出する塩水が涸れてきたのかもしれない。あーあ、今きっと酷い面してるんだろうな。塩水にやられて目も頬もびしょ濡れで、時々嗚咽を漏らして咳き込んで眉が下がってる。こりゃ酷いや。



「……ったく、」



その呆れたような声色に振り向いた。見ればドア付近に寄りかかる南沢さんが、俺に焦点を合わせてその呆れ顔が取っ払われた。



「……何、泣いてんだよ…」
「…ははは」



笑って誤魔化すしか選択肢が無かった。誤魔化してから我ながら意地を張る口が囁く。



「南沢さん、さよならしましょうか」



何故か口角が上がった。その台詞を涙の滲む満面の笑顔で言ってのけた俺に、南沢さんの硝子細工の目が見開かれた。



「…いつか言われるって思ってた」



このお人好しと、此方もまた満面の笑顔で罵られた。それで良かった。否定も肯定も言ってやらない。
それにしても、どちらが先に断つのかでこんなにも結末が違うのか。













ホルマリンの海で考えた事がある

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