二人しかいない放課後の教室は、普段の喧騒からひどく遠ざかった場所だった。窓の外から聞こえる微かな運動部の声や、目の前に座るテツナがシャープペンを走らせる音などが、かろうじて空気を震わせる程度である。静寂に支配された空間は、いつも賑やかな声の中にいる自分には似付かわしくないと青峰は思う。自分がたった一言発するだけで、壊れてしまいそうなこの世界の均衡はどうにも居心地が悪くて仕方ない。むずむずとする落ち着かなさに、青峰は少しだけ腰掛けている椅子に座り直した。これで三度目である。目敏い彼女はそれを見て小さく、けれど確実に青峰に届くように溜め息を溢した。シャープペンを動かしていた手を止め、テツナは顔を上げて青峰を見る。日誌に向けられていた彼女の淡い色合いの瞳が青峰を映す。やっと自分を捉えたその双眸に、青峰の中から先程まで居座っていた感情が、まるで存在していなかったようにさっぱりと消えてしまった。おかしな話である。内心、自嘲気味に自分を笑いつつ、彼女の机に頬杖をついた状態のまま、この均衡を壊してくれる彼女の一言を待つ。自らそれを壊してしまうのは、彼女に懐いている黄色の知り合いのようで、そいつと同じになるのは面白くないし癪でもあったから絶対にしてやらない。青峰の小さな意地だった。

「…早く部活に行かないとさつきに怒られるよ」
「お前が来んなら行く」
「私とそれは関係ないと思うんだけど」

呆れたと言わんばかりに、テツナはまた一つ溜め息をついた。その態度が面白くなくて青峰の眉間に皺が寄る。どちらかと言えば目付きの鋭い青峰がこんな表情を浮かべれば、周りの女子達はそれだけで怯えた色を浮かべるのに、この少女は臆するどころか面と向かってに対峙してくる。物事に固執しない淡白なイメージを与える見た目とは裏腹に、テツナは意志の強い瞳で真っ直ぐに言葉を投げかけてくる。それは青峰に限らず、かつてのチームメイトに対してもそうであった。時には磨いだばかりの鋭利な刃物みたいに辛辣な言葉を容赦なく投げつけてくる彼女は、青峰の知る女子の中で一番芯の強い女の子だった。だから気に入っているのだ。バスケばかりで回っている自身の世界に、いつの間にやらポツリと存在していることが当たり前になる程に。言葉にはしないが、青峰もその意志の強い瞳が自分を映すことを望んでいる。
テツナと青峰の繋がりも、やはり他のチームメイト達と同じようにバスケであった。そして青峰の場合は特にバスケと彼女の片割れであり、自分のかつての相棒であった黒子テツヤによって結ばれた繋がりだった。バスケがなければ、黒子が相棒とならなければ、きっと二人の道は平行線のまま交わることはなかっただろう。会話さえ、部活中や帰り道に黒子や桃井をはさんで話すくらいで、二人だけで他愛もない話をしたのなんて、それらに比べればほんの一部に過ぎなかった。近くに居るようで実際の距離は思っていた以上に遠いものだから、少しの焦燥感と遣るせ無さに苛まれる。あまりにも脆い繋がりだった。
それでもテツナは自身の片割れが進学した高校ではなく、青峰のいるこの学校に進学した。自惚れなかったと言えば嘘になる。別段、想いを告げたり一緒の学校にしないかと誘ったりした訳ではないが、他のチームメイトよりも、何より黒子よりも自分を選んでくれたのかと思った。だが結局「さつきが行くから」と、ばっさり言い切られてしまったのは春の陽射しが心地よい4月のことであった。それが本心であるか否かを突き止めるには、あまりにも自分達の仲は希薄に感じられて青峰はそこに踏み込むことが許されなかった。それに執拗に聞いたところでテツナがその心中を語るとは青峰には思えなかった。彼女は本心を隠すのが非常にうまい。何を考えてるのか、なんてかつての相棒よりも分からないと青峰は思う。感情を読み取らせない瞳は、いつもすましたまま青峰を見上げるだけだった。

「お前がマネージャーやんなら行ってやってもいい、って意味なんだけど」
「やらないよ」
「何でだよ」
「そんなことしたって青峰は変わらないでしょ。だからやらない」

再び日誌に向き直り、テツナは青峰のことなんかこれっぽっちも気にかけていない様子で作業を開始する。キミを変えられるのは私じゃない。テツヤの方だ。そう言ってしまいそうになるのを既の所で堪えて、テツナはその言葉を奥歯で噛み砕いた。日々遠くなっていく相棒の背を見る度に、自身の片割れの表情が悲しみの色に染まっていったあの頃、確かにテツナの表情もシンクロするように同じ色に染まっていった。青峰は光だった。相棒であった片割れにとっても、テツナにとっても。変わっていく光をどうにかしようと足掻く片割れとは裏腹に、テツナはどうにも身動きが取れなかった。何か行動を起こすには自分と青峰の繋がりはあまりにも希薄だとテツナも思っていた。互いに同じことを思っているなんて露程も二人は知らないから、案外簡単に捕まえられる手を逃してしまっていることに気づけないでいた。踏み込めないと勝手に決めつけて、何も出来ないならせめて逃げずに青峰の傍で見ていよう。そう思って桐皇に進学したことはテツナとその片割れだけが知る事実だった。勿論、桐皇を選んだ理由はそれだけではないけれど、此処を選んだのはテツナ自身の意志だ。青峰を変えられるとは思っていない。けれど、変わっていく過程を見ていようとは思う。バスケ部に入らなかったことも含めて、どうにもテツナは青峰に関しては臆病になって動けなくなってしまうのだ。
女の子らしい丸みを帯びた字ではないが、バランスの取れた整った字が羅列されていく。テツナらしい字だった。再び自分を映さなくなった瞳につまらなさを感じつつも、青峰はそれ以上の言葉を紡げずにいた。テツナの言った通り、彼女が自身の望むように傍に居てくれたところで、自分は変わらないだろうと青峰も思う。それでも中学時代のように傍に居てくれたら嬉しいと思う。そう言う肝心なことは言葉に出来ず仕舞いである自分が恨めしい。ボールを持ってコートに立つあの瞬間のように、本能的に最善の道を選び取れればいいのに。只でさえ言葉下手で、お世辞にも理性的とは言えない青峰には自身の募るばかりの恋情も、それを向ける相手であるテツナさえもどう扱えばいいのか分からないままだった。

「試合はね。見に行くつもりだよ」
「…そりゃあ、どうも」

たったその一言を言うのに、テツナがどれほどの勇気を要しているかなんて青峰は知らない。気付かない。その逆に、たったその一言を青峰がどれだけ嬉しいと感じているかなんて、テツナも知らないし気付いていないのだ。報われないのはお互い様だった。実は目の前に求めているものがあると互いに気付くには、もっと時間が必要で、変革を起こす何かしらのきっかけをひっそりと待ち望む。二人しかいない教室は再び静寂に支配されて、また居心地の悪さに青峰は椅子に座り直すのだった。


僕の辞書には不足しかない


title by 透徹



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