これの前の話


警戒心の強い野良猫に触れることを許された時の感覚によく似ていた。最初は近付くことさえ叶わなかったお猫様が自ら傍に寄ってきてくれた時の、あの込み上げてくる嬉しさと愛しさだ。念願が叶ったことへの達成感と喜びは大いに人を満足させてくれる。例に漏れず、テツナはとても満足していたし、その満ち足りた幸福感は彼女を凪いだ水面のように穏やかな心持ちにさせた。瞬きを一つ。一度だけ世界を遮断して、また向き合えば驚くほど世界は彼女に優しかった。寒さに震えるこの時期には見られない新緑がテツナの目を捕らえて離さない。二本の線がぴたりと重なった。レンズ越しでも鮮やかな緑は僅かに驚きの色を見せだけで、絡まった視線を自ら切り離すことはなかった。随分と丸くなったと思う。緑間真太郎はもっと近寄りがたく、付き合いづらい人物だった。たぶん、今でもそう言ったイメージを持っている人が多いだろうし、寧ろ親しくない者は彼の変化にさえ気付いていないかもしれない。けれど、テツナにとっては大きな変化だ。あの緑間真太郎が顔を顰めることも逸らすこともせず、真っ直ぐに目を合わせてくる。黒子テツナと言う存在を気にかけてくれている。互いに苦手意識を持ち合っていた中学の頃なら、こんな風に不意に目があった瞬間に迷わず顔を歪めて目を逸らしていたに違いない。緑間もテツナも。これはつまり、気難しく容易には心を許さないあの男の内側に踏み込むことを許されているということだ。素直に嬉しいと思う。緑間が変わったように、テツナだってあの頃とは違う。緑間真太郎に向ける感情に友情以上のものが加わったのは、彼が少しづつ変わり始めた頃と同じ頃だった。

しかし困ったことに、絡まった視線がせっかく蓋をして隠している感情を引き出そうとしている。うっかり出てきてしまいそう。得意のポーカーフェイスも危うくなってしまうくらい内側を乱されている彼女の救いは、その感情を向けられている相手が笑えるくらい鈍感なことだ。それでも顕著に現れれば、あの鈍い男も流石に気付くに決まっている。だから、気を抜けばだらしなく緩んでしまいそうになる頬を引き締めて、何でもないと目で訴え、ついでに小さく首を振っておく。それだけで此方の思惑通り特に言及することなく、緑間は何事もなかったように視線を元に戻した。その姿を確認してテツナは窓の外に目を移す。髪を結っていなくてよかった。どうにか顔には出さずに済んだけれど、今もなお熱を持っている両耳は何よりも雄弁だったに違いない。髪に隠れて彼から見えないのを良い事に馬鹿正直な反応を示す耳を、もし見られていたら変に勘繰られていたことだろう。テツナは胸に燻る感情の代わりに小さく息を吐く。休み時間特有の教室内のざわめきなんて気にならなかった。色んな人の声や音が混ざったその中から、低く愛想のない声を探そうとしていた。目は無意識のうちにまた彼の方に向いてしまいそうだった。

「具合でも悪いのか?」

頭上から聞こえた声にどきりとした。相変わらずの無愛想な顔に加えて眉を顰めているものだから、いつも以上に威圧的な雰囲気を纏っている。けれど、この眉間の皺は不器用な彼なりの心配の表れだ。声も棘があるように聞こえるかもしれないが焦ってのことだろう。そう、気づけるくらいには緑間のことを理解して、そばにいることを許されている。テツナは困ったように、けれど内側から溢れてくる感情を抑えきれないとでも言うように、目尻を下げて柔らかく笑ってみせた。驚くほど自然に出てきた笑顔に自分自身で驚く。大丈夫。そう言い終える前に目の前に影が落ちて、額にテーピング独特のカサッとした感触。吃驚して瞠目するテツナの視界の端で、先程まで緑間と話していた高尾が楽しそうにニヤついているのが腹立たしかった。

「熱でもあるのか?今日は少し顔が赤い」
「っ……気のせい、じゃない」

少しだけ触れた指先の感覚がまだ残っていた。触れられた場所がじんわりと熱を帯びて、そこから足の先まで全身が熱くなっていく感覚がした。緑間の背後で高尾が鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。きっと自分も同じような顔をしているのだろう。新緑の瞳に映る顔のなんて間抜けなことか!あまりにも予想外の行動で、不意打ちだったものだから平静を取り繕うことも出来なくて、テツナはいつものように言葉が紡げなかった。不自然な返答だったに違いない。怪訝そうな表情で緑間は彼女を見下ろしている。彼女の額に触れた指先が彼のメガネのブリッジを押し上げる。緑間の背後には驚いた顔から一変して、今度は肩を震わせながら笑いを堪えてる高尾。ついでにその場に居合わせた他のバスケ部員達までいる。思わずそちらをじとりと睨みつけつつも、彼らにどうにかしてと助けを求めずにはいられない。どう反応するのが正解だったのか、教えてほしい。もう後の祭りではあるけれど、テツナには最良の答えを見出す冷静さなんて欠片もなかった。額がむず痒い。未だに消えない感触が馬鹿みたいに心臓を煩くさせていた。

「……緑間って、ずるいよね」
「は?何を言ってるのだよ」

ずるい。ずるいに決まっている。あんなにも人を寄せ付けない雰囲気で、仏頂面の朴念仁のくせに、こんなにも簡単にテツナのことを受け入れる。中学の頃は片割れにも呆れられるほど馬が合わなくて、お互い必要以上の関わりを持とうとしなかったのに、今では自然と相手を気にかけ、自ら関わりを持とうとする。この緑間真太郎という男はなかなか気を許さないくせに、一度自分の中に踏み込むことを許した相手には途端に甘くなる。高く頑丈な城壁で囲まれ、簡単には開いてくれない強固な城門があってもその中は驚くほど手薄だ。その中に迎え入れた相手に対して、彼は外側から見ていた時とは違う顔を見せる。別に愛想がよくなるわけでも、横柄さがなくなるわけでもない。ただ、ふとした瞬間に雰囲気が柔らかくなって、今日みたいに自ら歩み寄ってくれるようになった。長く綺麗な指だ。手入れをけっして欠かさない、尊き努力の証は何の戸惑いもなくテツナへと伸ばされた。額から消えずに燻る熱が、その指先から緑間にも伝わってしまえばいい。自分なんかを受け入れて、無意識にこんなにも無防備な姿を晒されて、テツナばかりがドキドキしている。ずるい。緑間はずるい。緑間は訳がわからないと言う顔をしてテツナを見る。その姿を見上げて、テツナは安心したような、ちょっとがっかりしたような笑みを浮かべる。なんなのだよ、と首を傾げる緑間の後ろ、テツナの視界の端でまたニヤニヤと楽し気に笑っている高尾が心底恨めしかった。



微熱綴り




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