夢を見た。目が覚めて早々、背中が冷んやりとして、シャツが肌に張り付く湿った感じがした。嫌な感触に少し眉を顰め、それ以上に不快な感覚を与えた自身の夢に赤司は舌打ちをしたい気分だった。嫌な夢だ。彼らしくもなく、冷や汗をかいて目を覚ましてしまう程に。流石に魘されはしなかったが、乾いた口内を潤す為に赤司は部屋を出て台所へと向かう。時計の針は深夜の二時過ぎを知らせていて、当たり前だが家の中は窓から差し込む月明かりがぼんやりと照らすのみだった。自身の生活の場なのに、その薄暗さのせいで酷く不安を煽る空間に感じられた。音をたてないよう出来うる限り静かに歩く。それでも微かに軋む床の音がより静けさを強調させる。自分の家だからと電気を付けずに廊下を歩きながら、赤司は先ほど見た夢のことを思い出していた。
夢の舞台は生徒で溢れかえった昼休みの見慣れた学校の廊下。帝光中学校は生徒数が多い学校ではあるけれど、それにしても普段より廊下に出ている生徒が多かった。壁に寄り掛かり談笑をする者、財布片手に購買や食堂に向かう者、周りを気にせずふざける精神年齢の低い男子達。大勢の人間が作り出すざわめきが耳障りだった。正午になって高くなった太陽の陽射しが差し込む廊下は、夢から覚めた現在とは正反対で暖かく明るい空間だった。けれど、普段なら学校生活の半分が終わったことで少しばかり気を抜ける時間なのに、騒がしい廊下を端からぼんやりと見つめる赤司には彼らのように束の間の休憩を謳歌することも、いつものように部活に向けて考えを巡らすこともしようとは思えなかった。正体不明の胸騒ぎがしていた。誰を、と言う明確な相手は浮かばないが、赤司は珍しく何かに急き立てられるように辺りを見回し、誰を探しているかも分からないまま誰かを探していた。いま思い出すと不思議なことに、見知ったクラスメートがいてもおかしくはないのにその場に見知った顔はなかった。いや、正確には誰もがその人を特徴付ける顔を持たない、のっぺらぼうだった。赤司には彼らの顔が認識出来なかったのだ。
ふと、視線を感じて目を向ける。人混みの奥の方で真っ直ぐに自分を見つめる視線とかち合った。顔の無い生徒達の中でたった一人だけ、赤司と遠く離れた所にいるテツナだけははっきりと認識できた。周りのざわめきは未だに辺りを支配しているのに、赤司が好感を持った痛いほど真っ直ぐに相手を見つめる双眸を見つけた瞬間、周りの音が遠くなって、離れている距離さえ感じさせない程よく彼女を見ることが出来た。彼女は何も言わなかった。ただ、真っ直ぐな瞳で赤司を見つめるだけで、いつもみたいに笑いかけることも声をかけることもなかった。射抜くような視線に思わず目を逸らしたくなる。赤司はテツナには甘く、滅法弱かった。

「ねぇ、赤司……」

テツナの声がまるで耳元で囁かれているかの如くクリアーに聞こえる。絡み合う視線を通して赤司は既視感を覚えた。よく似た瞳を前に感じたことがある。痛いほど真っ直ぐで、咎めるように射抜く双眸。誰だったか。普段通りに頭が回らなくて、苛立たしげに少し眉を顰める。急に視線の先の彼女の姿が、投影機で映し出された映像のようにチカチカとブレる。ハッ、として息を飲む。双子だから何処と無く似てはいたけれど、その時ははっきりとテツナは彼女の片割れの姿に変わっていた。テツナではなくテツヤが今度は赤司の名前を呼んだ。そしてまたテツナに戻ると、彼女の視線は赤司の赤い双眸から外れて彼の右手へと移る。いつの間にか、手には白い封筒が握られていた。確かに見覚えのあるそれに書かれた名前は彼女の片割れの筈だった。筈だったのに、嫌な予感を感じつつその封筒に目を落とせば、彼とは違った筆跡で彼女の名前と退部届と言う文字が書かれていた。瞬間にゾッとした。彼女の片割れから受け取った時は感じなかった喪失感と恐怖が全身を駆け巡った。テツナは今まで一度として赤司に向けたことがない冷たい目で彼を一瞥すると、くるりと後ろを向いて歩き出す。まるで決別を意味するみたいな瞳で赤司からその双眸は外れていった。自身の気配を人々の中に紛れ混ませるのが得意な片割れのように、彼女の姿は音もなく人混みの中に消えて行く。テツナもこのまま姿をくらましてしまう気がした。いくら赤司でも片割れが本気で姿を隠せば見つけられないのと同様に、彼女のことも見つけられなくなる気がしてならなかった。そんな現実認めない。言葉にする代わりに手の中のそれを握り潰して、赤司は離れていくテツナに向かって駆け出した。顔がない生徒達はそれが目的だったみたいに赤司の行く手を阻む。意図的に配置された人形の如く、彼らは上手い具合にテツナを追いかける赤司の障害物となっていた。テツナは片割れのように影は薄くないし、自ら人の影に紛れていくこともしないだろうけれど、まるで片割れが彼女に乗り移って彼女を奪って行くかのように赤司には感じられて焦りが生じる。あの時のようだ。黒子テツヤが退部届を出してから、部員の誰からも姿を隠すようになった、あの時のようにしか思えなかった。

「行くなっ…」

手を伸ばしても届かない。結局、一度としてテツナが振り返ることはなかった。


季節は年の瀬に差し掛かり、黒子テツヤがバスケ部を辞めたのはもう何ヶ月も前のこととなっていた。片割れが退部しても何事もなかったようにテツナは部活を続けていたし、変わらず赤司の隣にいた。それにも関わらず何故あのような夢を見たのか。未来を予言する占いのようで腹立たしい。それ以上に腹立たしいのは、夢の中とは言え伸ばした自身の手がテツナに届かなかったことだ。現実でないとしても、自身の思い通りにいかないことなどあってたまるか。赤司が描いたシナリオを飛び出す異物など彼は絶対に許さないし、認めない。赤司征十郎はそういう人間だった。だから、テツナへの想いを自覚してからは彼女を自分の傍に置くと決めた。夢の中でも離れるなんてあってはならない。好いた相手だからこそ、赤司は他の誰よりもテツナを離してやるつもりはなかった。
暗がりの中、注いだばかりのミネラルウォーターに口をつけながら電話帳を開いて彼女の名前を探した。深夜と言う時間帯であることも気にせず、赤司は迷わず通話ボタンを押した。何回か呼び出し音が鳴り続いた後、やっと繋がったことに赤司は少しだけ満足して、安堵した。寝起き特有の掠れた声で電話の向こうからテツナが彼の名前を呼んだ。続いて、どうしたの?と眠たげに問いかける。こんな夜更けに唐突に電話をかけられて、ぐっすり寝ていた所を叩き起こされたとしても彼女が赤司に対して怒ることはないし、呆れはしても嫌うことは決してない。大概、テツナも赤司には甘く、滅法弱かった。

「声が聴きたかった……って言ったら怒る?」
「呆れる、かな」

電話の向こう側でテツナが小さく笑っていた。不快感と苛立ちと不安がごちゃ混ぜになっていた自身の内側が、彼女の穏やかな声一つで丁寧に解されていく感じがした。彼女の存在はいつも赤司の濁った部分を綺麗に取り除いてくれる。顰められた表情も柔らかくなる。けれど、彼の朱色の双眸だけは暗い色を手放していなかった。

「ねぇ、テツナ」

月明かりだけが頼りの薄暗い部屋には赤司の声は冷たく響いた。電話越しでもテツナは敏感にその変化を読み取って、小さな違和感に思わず上体を起こした。夜の静けさは不安しか煽ってくれない。

「さっき、お前がいなくなる夢を見たよ」
「うん……」
「馬鹿だと笑うかもしれないが正直、不安でね……。だから、オレから離れないで欲しい。離れないで、くれ」

今まで聞いたことないほど弱々しい声と言葉だった。この電話の相手は本当に赤司征十郎なのか、とテツナでさえ思わずそう考えてしまうほど彼らしくない脆い姿だった。何処かで赤司は孤高の存在であり、自分は隣ではなく彼の遥か後方でその存在を認識し、想うことを許されているような距離感をテツナは感じていた。だから、急にこんなにも自分達と同じような不安や寂しさを感じ、他者に縋るような言動をするなんて思ってもいなかった。赤司は誰にも頼らないし、本当の意味で誰かを信じることはないのだろうと彼女は思っている。もし、どうしようもなくなるなんて状況が万が一にも訪れたとしたら、きっと赤司は寿命が尽きた星のように気づけば姿を消してしまうのだ。いつ、どんな状況でも彼は助けを求めない。そう、思っていたのに。

「テツナ、黒子じゃなくてオレを選んで。テツナがいないと、ダメなんだ」

ずるい言い方をした。そう赤司は自覚していたし、自覚した上で言葉を選んでいた。テツナは優しい。彼女の優しさは縋って助けを乞う弱い存在を振り払えない、自身を追い詰める優しさだ。姉と言う性分と、彼女の片割れがその体質故に直ぐに何処かへいなくなってしまう危うさを持ち合わせたことによる、人を癒すけれど、時には許しすぎることで相手を駄目にしてしまう、酷く甘ったるい優しさを彼女が持っていることを赤司はよく知っていた。加えて、彼女が周りに頼らない自分に対して言いようのない不安を抱いていることさえ知っていた。人知れず消えてしまいそうだ、と言葉にはせずともテツナは赤司のことをそんな風に心配していた。だから、彼女が自身の申し出を断れないことを分かった上で言葉にした。弱者を見捨てられないテツナには、自分にだけ弱さを見せ、縋る赤司の手を離すと言う選択肢を選ぶなんて出来る訳が無いのだ。

「……いる、よ。ずっと一緒にいる」

少し震えた声が遠慮がちに赤司が求める言葉を紡いだ。テツナの戸惑いが手に取るように分かる。気まぐれで言った冗談ではないことぐらい気づいているからこそ、彼女はますます自分がどうすればいいのか分からない。安心させる為に紡いだ、彼の求める答えは果たして正しい選択だったのか。まだ中学生である自分達の口約束にどれほどの拘束力があるかは分からないけれど、先程の赤司の声のトーンと赤司ならばと言う暗黙の認識が見えない未来を暗くする。正直、テツナは怖かった。今の現状と、彼らしくもない言動が作り出すこの重たい雰囲気が嫌な想像しかさせてくれなくて、恐怖を感じずにはいられなかった。

「ありがとう、テツナ」

口角が上がる。穏やかな声で紡がれた感謝の言葉は安堵する弱った姿を連想させるのに、それとは裏腹に赤司が浮かべる笑みは驚くほど冷たく、私欲に満ちていた。電話の向こうにいるテツナにはそんな姿が見える筈もなく、まだ少し弱々しさを感じる赤司の声色に、彼にしては珍しく今日は本当に弱っていただけかもしれないと言う淡い期待を抱いて、自身の内側に燻る不安を消すのが精一杯だった。形を持たない言葉の鎖がどれほど重いかを知るには、まだ時間が足りない。いつしか身体中に巻き付いた鎖によってテツナは動けなくなる日が、赤司から離れられなくなる日が来るのだ。あとはゆっくりと鎖を増やしていくだけ。赤司は口許に笑みを浮かべる。それは彼女を安心させる、いつもの優しい笑みではなく、酷く冷ややかで狂気の色をしたそれだった。


悲しみに喘ぐ声を聞き逃し続けた夜の話


Title by ダボスへ
フリリク企画 乙樹さまへ



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