これの続き

大きな幸せより小さな幸せの方がいい。例えば、宝くじで1等を当てるような、そんな想像もできない幸福を手に入れたいとは思わない。それよりも、こうやって夜遅くに帰宅しても部屋の明かりがついていて誰かが待っていてくれる、こんな細やかな幸福が何回もある方が、黄瀬にとって何倍も嬉しくて幸せなことだ。
いつも先に休んでていい、と言っているのにテツナが黄瀬の帰宅よりも先に寝てしまうことは一度としてなかった。大学とバスケに加え、未だに続けているモデルの仕事のせいで黄瀬の帰宅は深夜を過ぎることが度々あった。朝が弱いことを自覚している彼女は、だいたい日付を跨ぐ前には眠るようにしている。そうしなければ自分自身が辛いと分かっているからだ。普段はそうしているにも関わらず、共に暮らすようになってから一度も黄瀬が帰宅した時に部屋が真っ暗だったことはない。重たくなった瞼を叱咤ながら、ソファーで本を読む華奢な後ろ姿を見るのはもう何度目だろうか。彼女が自ら行なっていることとは言え、やはり眠たげなその表情を見る度に申し訳なく思う。けれど、それ以上に待っていてくれることにこの上ない喜びと幸せを感じずにはいられなかった。だって、それは言葉に自身の感情を乗せることが少ないテツナの、言葉よりも確かで大きな愛情なのだから。
今日も黄瀬の帰宅は日付を跨いだ後だった。アパートの外から見上げた自分達の部屋の窓からは、思った通り僅かに明かりが漏れていた。それを見つけた時に口許が緩んでしまうのは毎回のこと。黄瀬が頼まなくたって、帰宅がどんなに遅くなったって、テツナは必ず待っていてくれる。もう当たり前になりつつあることだとしても、彼女に対する感謝は一度として忘れたことはないし、こう言うことが何度積み重なってても、黄瀬の中からそれに対する嬉しさや愛しさは決して消えることはない。今日一日の疲れを感じないほど軽い足取りで黄瀬は部屋へ向かった。エレベーターを待つ時間さえ惜しくて、早く会いたいと言う気持ちに急かされるように階段をかけあがった。そのままのスピードで足を動かせば、あっという間に部屋の前。鍵を開けて直ぐに聞こえてきたのは、ついこの間、黄瀬が買ったお気に入りのバンドの新譜だった。急いで靴を脱いでリビングに向かい、いつものようにソファーに座るテツナを視界に捉えると直ぐ、黄瀬は彼女を後ろから抱き締めた。

「おか、えり」
「ただいま」
「びっくりした。急に抱きつくから」

薄い肩口に顔を埋めて、更にぎゅっと痛くない程度に抱き締める腕に力を込めて引き寄せる。頬に当たるテツナの髪にはまだシャンプーの匂いが強く残っていた。自分も使っているものなのに、彼女が纏うと自分とは違った特別なものに感じるなんて、いったい何れだけ溺れてしまっているのか。今だって、何週間も顔を合わせていなかった恋人に会った時のような勢いで抱き締めてしまったが、実際は一緒に生活しているのだから毎日顔を合わしているし、今朝も一緒に部屋を出たのだ。こんなんじゃ遠距離恋愛をしている人達に贅沢だと怒られてしまう。そうは思えど、充分満たされいる筈なのに、黄瀬は満たされれば満たされるほど欲しくなる。贅沢を知った子供のように欲張りになる。テツナに関することとなると、どうにも黄瀬は我が儘だ。

「会いたかったぁ」
「毎日会ってる」
「それでも早く会いたいって思うし、抱き締めたいって思うんスよ!」

肩口に顔を埋めたまま、ぐりぐりと押し付けるように擦りつく。慣れと、どうせ離れてと言っても聞かないと言う諦めから、テツナは嫌がることもせず黄瀬を受け入れる。キリのいいところまで読もうと思っていた本は、もう読む気分ではなくなってしまったので栞をはさんでさようなら。本当は、そろそろ黄瀬が帰ってくるだろうと意識しはじめた頃から殆ど内容が頭に入ってこない状態だったせいで、テツナは文字を追うことにさえ集中できていなかった。それを伝えたら、黄瀬は彼女の大好きな明るい笑顔を咲かせて、これ以上ないと言うほど喜ぶのだろう。もしくは好きだと伝えたあの日のように、綺麗な顔を夕焼けみたいに赤く染めて、でもそれではかっこ悪いからと彼なりの男の意地で真っ赤なそれを見られないよう、必死に隠しながらずるいと小さく呟くのだろう。どういう反応が帰ってくるか手にとるように分かるくらい長い間一緒にいる。それでも、そんな自分の感情を伝えるのは未だに気恥ずかしいし、何だか悔しいからテツナは絶対に口にはしない。だいたい、夜更かしは苦手なのにこんな時間まで起きて待っていたり、普段はあまり聴かないのに黄瀬が好きな曲と言うだけで馴染みのないアーティストの曲を聴いたりしている時点で、言うまでもなくテツナも同じ気持ちだと言うことに気付いて欲しい。それもテツナは言わないけれど。
未だに回されたままの腕に触れる。どうして自分の匂いは全く感じないのに、他人の匂いにはこんなにも敏感に反応するのだろう。どうして人の温度はこんなにも気持ちを落ち着かせてくれるのだろう。抱き締められた瞬間に香った匂いは、共に生活をする自分ともう殆ど同じそれの筈なのに、直ぐにそれが黄瀬のなのだと教えてくれた。急に回された腕に心臓が一瞬だけ嫌な音をたてたけれど、自分達が共有する匂いが鼻を掠めた瞬間に、うって変わって安堵が身体中を駆け巡った。それに触れ合った部分から伝わる微かな温度でさえ、それまで感じていた自身の中の小さな穴を何事もなかったように埋めてしまうのだから驚きだ。黄瀬を待っている間は時計の針が夜を突き進んでいく度、砂時計の底にたまっていく砂のように、毎回胸の中で何かあったのではないかと言う縁起でもない不安が積もっていた。それと一緒に、早く帰ってきて欲しい言うと少しの寂しさと我が儘が顔を覗かせていた。けれど、それらが作った空洞は黄瀬の一挙一動で綺麗さっぱり消えていく。テツナを不安にさせるのも、それ以上に安心させられるのも黄瀬をおいて他にはいない。大切にしてきた片割れの位置以上の場所に自分が置かれていることに、黄瀬は気付いてくれているのだろうか。意外と遠慮深くて、変なところで人との間に一線を引いて控え目になるところがあるから、そんな自惚れに近い思考を彼はしないのかもしれない。大抵のことは何でも器用に熟せるくせに、こう言うところは不器用。冷めた目をするくせに結構な寂しがり屋と言った面も含めた、黄瀬のちぐはぐ具合がテツナは可愛くて、愛しいのだ。

「私も、寂しかった」
「へ…」

回された腕に頬を寄せて、服の袖を少し握りしめたテツナは小さな声で呟いた。彼女の口からそんな言葉を聞くのは、今まで片手で数えられるほどの少なさだったから、驚きから黄瀬は思わず顔を上げて彼女を見た。自身の腕に顔を埋めているからその表情を窺うことは出来なかった。けれど、髪の隙間から覗く頬がほんのりと赤く染まっているのが見えたから、それだけでもう充分だった。必要以上の言葉がなくたって、伝わるものは伝わるから。

「あー、もう…好き」
「…それも、知ってるよ」

つられるようにして赤く染まった自身の顔を隠す為に、黄瀬は再びテツナの肩口に顔を埋めた。柔らかい金糸の髪が彼女の頬を、首筋を撫でる。触れ合う部分からだけではなく、胸の内側からもくる擽ったい感覚を自分だけが味わうのは悔しいから、テツナは耳元で「私も」と小さな声で付け足した。途端に勢いよく顔を上げた黄瀬の目は普段以上に大きく見開かれ、頬はあの日のように夕焼け色に染まっていた。まだ仄かに頬を染めたまま、黄瀬のそんな表情に対してテツナは勝ち誇ったように笑った。そのまま、見ている此方までその熱が伝わってきそうな頬に口付ければ、彼女の完全勝利だ。


それなら心を綴ろう


Title by ダボスへ
フリリク企画 佐々木さまへ



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