これの続き

結婚を機に緑間とテツナは前より広めのアパートに引っ越した。半同棲状態を何年も続けていた二人だったから、一人暮らしにしてはやたら広い緑間のアパートに転がりこんでしまえばいいとテツナは思っていたのだけど、互いの両親から「先のことも考えなさい」と言われてしまったのだから仕方ない。先のこと、なんて言われてもそう簡単に出来るものでもないでしょうに、と思っていたのにテツナの予想とは裏腹に結婚ニ年目を迎える前には両親達に孫の顔を見せることが出来ていた。だから言ったでしょうと言わんばかりの表情をした自身の両親には、実際のところぐうの音も出なかった。暫く使うことはないだろうと思っていた子供用の部屋には、両親や友人達、そして意外と子煩悩らしい緑間からの贈り物で溢れていた。我が家の天使は幸せもの。部屋の掃除をする度にテツナはそう思うのだ。
緑間が一人暮らしをしていたアパートには持ってきていなかったのだけれど、せっかく広めの場所に引っ越すのだからと、今回は実家から彼のアップライトピアノを持ってきていた。そんなに頻繁に弾かないと最初は渋っていた緑間も、テツナからも頼まれてしまえば首を縦に降るしかなかった。真のピアノ、聴かせてよ。そんな殺し文句と柔らかな笑みを浮かべられて、断るなんて選択肢が見つかる筈もない。それに実際すぐに触れられる場所にあると、時折、物凄く弾きたい衝動にかられて、結局は誰に頼まれるまでもなく鍵盤に指を置いていた。普段から聴く音楽がクラシック中心の緑間からピアノを取り除くことは出来なくて、加えて気付けば後ろのソファーで自分の演奏に耳を傾ける妻の姿を見つけてしまえば、もう満更でもなかった。大概は自分の好きな曲を弾いたが、時にはテツナからのリクエストも受け付けた。そこまで詳しい訳ではないテツナは、二人で買い物に出掛けた時に耳にした曲やテレビで紹介されたあの曲など、曲名をはっきりと言わない抽象的な注文をしてくるものだから、その度に緑間は面倒くさそうな表情をしながらも、知らない曲もちゃんと調べて弾いてくれた。ピアノを習っていた頃より、何年も離れてからの方が曲を覚えるのが楽しいだなんて、思っても絶対緑間は口にはしなかった。二人で時間を重ねるに連れて、昔より素直な感情がスムーズに言葉になって出てくるようにはなったけれど、気恥ずかしいものは未だに変わらず恥ずかしいのだ。

非番の日は必ずと言っていいほど緑間は育児を買って出てくれたし、暇さえあれば孫の顔を見にくる両親達と貢ぎもの片手に遊びにくる友人達のおかげもあって、テツナはこれと言った大きな悩み事もなく平穏に過ごしていた。今日も緑間が面倒をみていてくれるからと、気分転換も兼ねてテツナは一人買い物に出掛けていた。目的の買い物が終わった後に、ふらりとベビー服のコーナーに行ってはこれなんてどうだろうと見繕ってしまう辺り、テツナも緑間や両親のことは何も言えない。そうして結局は何かしら子供に買ってから帰宅したテツナが、玄関に足を踏み入れて最初に耳にしたのはピアノの音。ブラームスのバラード。緑間がよく好んで弾くその曲がテツナも好きだった。正確には緑間が弾いてくれるから好きになった。生憎、クラシックにそれほど関心を持っていなかったから、よく耳にする有名どころを除けば、テツナのクラシックに関する知識は全て緑間によって構成されていた。これは真が好きなリストのピアノソナタ、この曲はよく聴いているベートーヴェンの交響曲第何番で、あぁ、これはあまり弾かないとぼやきながらも子供の為に弾いてくれたモーツァルトと言った感じに。出産前に高尾からモーツァルトを聴かせるといいらしいと聞いたので、乗り気ではない緑間を説得して、一度だけ弾いてもらったことがある。最初は穏やかな気持ちで聴き惚れていたのに、次第に感じてくる緑間のイメージとモーツァルトのそれとの合わなさに、最終的に高尾と二人で笑ってしまったのは良い思い出だ。演奏後に怒られてしまったけれど、やはり似合わないのだからしょうがない。それにあまり弾かないと自ら言っていたのは、似合わないと自覚していたからだろう。あれ以来、緑間のモーツァルトは聴いていない。少し残念ではあったが、聴いてもいろいろと思い出してまた笑ってしまうだろうから、今はまだそれでいい。

「0歳児にブラームスは早いんじゃない?」
「モーツァルトを弾くと雑音が入るからな。それよりはマシだろう」

演奏を止めてテツナの手伝いにやって来た緑間は、そう皮肉るのと一緒に彼女の髪をくしゃりと一撫でした。秀徳高校バスケ部の柱として皆を引っ張ってきた彼のその手は、今はテツナを、そして彼女を含む自身の家族を守り、優しく包み込む手となった。大きな手の平が与えてくれる安心と暖かさにテツナは目を細めて、小さく笑みを溢した。知り合ったのはもう随分も前のことなのに、こうやって互いの存在を必要とし、同じ姓を名乗るようになるまでには驚くほど長い道のりだった。どちらも素直さが足りない性分の為、お互い、相手に向いてしまった自身の好意を認めるまで出来うる限りの遠回りをしたものだ。それでも最終的にこの形に落ち着いて、言葉にした頻度は周りが呆れるであろう低さだが、相手に愛の言葉を伝えたこともある。そうやって過ごした数年後に二人の間に生まれた、守るべき小さな存在を抱き上げる度にテツナも緑間も時折ふと思う。誰がこんな未来を想像できただろう。交わらないと勝手に決めつけていた平行線が、ゆっくりと近付き、離れぬように堅く絡まった現在。穏やかに過ぎていく優しい時間を噛み締める。日々成長していく我が子の一瞬一瞬を何度も思い返せるよう心に焼き付ける。そんな毎日を生きるなんて思いもしなかった。
今までの足跡を振り返ることで改めて感じる幸せに一層笑みを深めて、冷蔵庫に買ってきた食材を入れる緑間の背中に向けてテツナは手を伸ばす。しゃがんでいるおかげで丁度良い高さにある首に、そっと腕を回して珍しく甘えてみる。予想もしなかった妻の行動に面食らって振り返る緑間を彼女は愉快そうに笑った。こんな焦った緑間の表情はそうそう見れるものじゃない。

「真が弾くショパンの夜想曲が聴きたいな」

以前のように人事を尽くすと称して身体を鍛えることは無くなったけれど、それでも変わらずがっしりとした緑間の背中は広くて安心感を与えてくれる。彼の後ろ姿は何時からか、家族を持つ男として一段と頼りがいのある逞しさを身に纏った。その背に自身の身体を預け、テツナは緑間の肩に顔を乗せながら、驚きの表情が消えた代わりに、呆れと見え隠れする嬉しさが混ざった彼の横顔を満足気に眺める。お互い言葉にするには素直さが足りないから、時々こうやって示すことがあったっていいじゃないか。何より唐突すぎる行動に戸惑う姿を見て、それをからかうのが楽しいのだ。なんて、機嫌を損ねるからテツナは絶対言わないけれど、緑間がピアノの音に乗せて想いを伝えるように、テツナは茶化しつつ、その中に精一杯の甘えを忍ばせて想いを伝える。大切な我が子の次は最愛の妻に優しい調べを。首に回された細い腕に手を添えて、「仕方ないから弾いてやるのだよ」などと面倒臭そうに言いつつも、その時に緑間が浮かべた表情はテツナだけが知っている穏やかで優しい笑みだった。


わたしはそういう風に愛している


Title by ダボスへ
フリリク企画 春都さまへ



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