ゆらり、と視界が揺れた時には遅かった。しまった。そう思うよりも早く遠のいていく意識と、フェイドアウトしていく視界の中で最後に捉えたのは誰だったのか。倒れた衝撃が来たところで意識が戻ってくるとは思わないが、途切れ途切れになっていく頼りない思考回路で、テツナはそんなことを気にしていた。意外と心配性な片割れとキャンキャン子犬のように騒ぐ友人達に、口煩く何を言われるのかと考えるよりは気が楽だったからかもしれない。ただ、やっと目が醒めて一番最初に視界に入った色が鮮やかな緑であると認識した瞬間、なぜ歯を食いしばってでも意識を保たなかったのかと、先程の自分を恨まずにはいられなかった。正直、テツナは緑間真太郎と言う部活仲間とは相性がよろしくなかった。それは両者が唯一共に認める共通点だ。
薬品の匂いと洗い立てのシーツの香りがした。清潔さを象徴する白に囲まれた空間の中で一際目立つ緑色は、相変わらず仏頂面を貼り付けたまま傍らで読書に勤しんでいた。ぼんやりとした淡い色彩の瞳が、視界に緑を捉えた瞬間に一気に覚醒したのと同時に、テツナはこれでもかと言うくらい顔を歪ませた。体調管理が出来ていなかった自分に非があることは重々承知済みだ。それでも、他人に迷惑をかけてしまったことだけでもう十分に失態なのに、それだけに止まらず迷惑をかけた相手が緑間だなんて現実を突き付けられては、自分が悪いと分かっていてもこれ以上の反応の取り方が彼女には分からない。因りにもよって、緑間にかりを作ることになるなんて想像もしなかった。何とやるせないことか。緑間真太郎と言う男もなかなか横柄なところがあるが、今の自分はそれに負けず劣らずだなと言うくらいの良識は残っているけれども。

「起きたか、黒子」
「…おかげさまで。迷惑かけてごめんなさい。あと、わざわざありがとう」
「そう思うなら自分の体調管理くらいちゃんとするのだよ。仮にもお前は部員のサポートをするマネージャーだろう」

本から目を離し、呆れたと言う色をした目で緑間はテツナを見た。彼女自身も痛いほど感じている部分を、磨いだばかりの包丁のような鋭利さで容赦なく突いてくるこの男に優しさはないのか。トドメだと言わんばかりにつかれた溜め息に、言い返すにも何一つ言葉を持たないテツナはぐうの音も出なかった。片割れ同様、淡白そうなイメージを与える見た目ながら、なかなかに負けず嫌いな彼女の頭によぎったのは、彼の膝に乗せられた今日のラッキーアイテムであろうネコのぬいぐるみを窓から投げてやることだった。とは言え、不本意ながらも緑間には迷惑をかけてしまったし、身体はまだダルいから実際には行動に移しはしなかった。ただ、気持ちはそれぐらい荒んでいた。

「体調はどうだ?」
「大丈夫。たぶん寝不足だっただけだと思う」

読んでいた本を閉じ、膝の上のぬいぐるみと一緒に近くのテーブルに避けながら、そうかと緑間は静かにたった一言呟いた。綺麗に整った横顔は静寂とした森のように、混じり気のない落ち着いた表情だった。いつまでも横になっているのも忍びないので、彼女はゆっくりと身体を起こした。窓から見える空には高々と昇った太陽と、校庭でサッカーをする男子の姿があった。先程の合同体育は4限だったから、きっと今はお昼休みの頃だろう。思っていたより時間は経っていなくて、内心ほっと安堵した。いつから此処にいたのかは分からないが、あまり緑間の時間を奪ってはいないらしい。制服に着替え、本まで持ち込んでいるから、まさかとちょっと不安だった。
カタン、と小さく物が動く音がして、続いてテツナに影がかかる。寝起きでぼーっとしていたのか、気付けば前髪を避けて緑間の大きな手が彼女の額に触れていた。小さく息を飲む。驚いた。まさか緑間が自ら触れてこようとは。彼女は表情に乏しいと言われるけれど、流石に困惑した色を顔に浮かべる。几帳面さが在り在りと伝わってくる、丁寧に巻かれたテーピングの質感がやけに擽ったい。珍しく落ち着かな気な様子で緑間を見上げるテツナを、普段と何ら変わらない表情のまま彼は見下ろしていた。お前もそういう顔をするのだな、と。鼻で笑ってやってもよかったけれど、具合いの悪い人間をからかって遊ぶ趣味なんて彼は持ち合わせてはいなかった。ただ意外だったのは、額に触れた手を叩き落とされなかったことだ。

「熱はないな。これでも飲んで、もう少し寝てろ。寝不足なら尚更だ」
「ありが、とう」

手渡されたスポーツドリンクをまじまじと見つめていれば、紫原からだと付けたされた。別に緑間から物を貰うのが嫌と言う訳じゃないのに。そう伝えてもよかったけれど、そんなことで一々傷付くような繊細さや自分に対する好感は持っていないだろうと結論づけて、テツナはペットボトルに口を付ける。ふと疑問に思ったことは、自分が起きるまで傍にいてくれたのが同じクラスで仲の良い紫原ではなく、互いに相性が悪いと認め合う緑間であったことだ。わざわざ飲み物を買ってきてくれたのなら、紫原だって此処にいた筈だろうに。何故。何故、緑間が傍にいてくれたのだろう。緑間真太郎はそんなに面倒見の良い人物だっただろうか。そんなこと、流石に口喧嘩になりかねないから言わないけれど。

「緑間、ありがとうね」
「なら二度と同じことをするなよ。倒れるのはお前の弟だけで十分だ」

再び椅子に座って緑間は本を開いた。どうやらまだ此処にいるらしい。何だか妙に優しくて何か裏があるのかと勘繰ってしまうし、その優しさが逆に怖くなってくる。訝し気に自分を見てくるテツナの視線なんて、まるでそんなもの存在しないとでも言うように、緑間は気にも止めず読書に勤しむ。あぁ、そう言えば緑間とだって気が合うことがあった。ブックカバーで覆われていて何を読んでいるか分からないけれど、たぶんその本は自分も気に入る内容のものだろう。本に関しては黒子兄弟と緑間は驚くほど好みが似ていたから。

「緑間、今度おしるこ奢ってあげる」
「…いきなり何なのだよ」
「今日のお礼だよ」
「別に気にする必要はない。オレは紫原の代わりでいるだけだ。もうすぐ、アイツがお前の着替えと弁当を持ってくる」

ページを捲る音がする。緑間は本から目を離すことはなかった。相変わらずその横顔は落ち着いたものだった。言われた通り再びベッドに横になりながらテツナは思った。案外、緑間の隣も落ち着くものだ。そう思うのは、優れない体調からくるダルさと眠気による勘違いかもしれないが、今こうやって傍に居てくれる緑間に確かに自分は好感を抱いている。これを機に彼に対する自分の認識を改めてみるのもいいかもしれない、なんて思いながらテツナは瞼を閉じた。



エンゼルフィッシュの瞬きは何処へ消えた


title by 透徹



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