それは確かに憧れであった。主将として自分たちを引っ張り、在り方を示すその背中にテツナは憧憬の念を抱いていた。とても厳しい人ではあったが、部活以外で見せる優しく大らかな一面にも強く胸を打たれた。大坪のその人柄もバスケに対する真摯な姿勢も、そのまま目標として額に入れて掲げたいほど尊敬していた。大坪主将のようにと、そう同じく胸に刻んだ部員は少なくないだろう。テツナだってそうだった。マネージャーと選手の間にある絶対的な壁、成長期に顕著になる男女の大きな差を中学時代に実感させられたからこそ、何だか悔しくて、置いていかれたくない一心で余計に大坪の背を追いかけた。埋められないものがあることは知っている。中学時代に目の当たりにした障壁は女である自分には一生取り外せないものだと分かっている。そう分かってはいるけれど、だからと言ってそれをそのままにはしていたくなかった。負けず嫌いで、諦めの悪い強情者。それが自他共に認める黒子テツナの変えられない性分だった。
ただ、やはりマネージャーであるテツナには他の部員達と同じように彼のようになりたいと言う目標は何だかしっくりこなかった。大坪のような選手に、主将に、先輩に。それらは全て、女でマネージャーであるテツナには当てはまらない。だから代わりと言ってはなんだが、大坪を自分だけの手で支えられるような、例えば桃井のようにマネージャーの枠を越えてチームの参謀として頼りにされるような、そんな風になりたいと言う目標ができた。共にコート上には立てないが、サポートと言う形で頼りにされるようになりたかった。なんと烏滸がましい願いだったことだろう。自分よりも二つ年上で、強豪校の主将である大坪に頼りにされるにはテツナは何とも小さな存在だった。桃井のようになるには、スキルも経験も彼女には到底追いつけそうもなかった。それでも何かしらの形で大坪の力になりたくて、もっと彼の率いるチームを支えたくて、この一年をがむしゃらに頑張ってきた。全ては大坪に認めて欲しかったからで、憧れの対象に少しでも近付きたかったから。間違いなくテツナの抱いた感情は確かに憧れだったのだ。そう、憧れだけで終わる筈だったのに、いつからかテツナの感情は憧れからまた別のところへも浸透していた。

「なぁ、大坪さんのこと好きなの?」

雨ばかりが続く梅雨の時期。湿った空気と屋内に篭る熱が混じり合う体育館で爆弾が一つ投下された。作業の手を止めて、隣で壁にもたれて座る高尾を見る。下から見上げてくる切れ長の瞳は問い詰める風でもなく、そう言えば、と言う感じでふと思い出したことを口にしているだけのようだった。あれがいけなかったのだ。あの時の高尾の問いを拾い上げてしまったのが失敗だった。大坪へ向ける憧憬の眼差しに、高尾が言うような恋情の熱が混ざったのは一体いつだったのか。自分自身のことなのに、はっきりと特定できないほどゆっくりと水面下で広がった熱は、やたらと目敏い彼の一言でそれまでの沈黙を破ってみせた。好きなのか、と。たった一言、明日の天気を問うような気軽さで紡がれた言葉に、酷く胸の辺りが騒ぎ出したことをテツナは今でもよく覚えている。そんなことない、と戸惑うことなく自身の口は否定したのに、意図せず騒ぎ出した心臓だとか、頬に集まる熱が彼女の否定を更に否定した。身体の持ち主の意見を勝手に否定して、頼んでもいないのに自覚させた。大坪を憧れの先輩としてでなく、異性として慕っているのかと聞かれたその時、テツナは無意識に思い浮かべた彼の姿に胸がきゅうっと締め付けられる思いがした。先を行く彼の背を追いかけている時とは違った心地がした。そうか、好きなのか。意識を向けようとも思わなかった自身の感情は、その影を見つけた瞬間にぽとりとテツナの胸に落ちた。完成間近のパズルの最後のワンピースをはめた時のように、その感情は思いの外しっくりとテツナの中に組み込まれた。それまで見向きもしなかったのに、一度自覚してしまうと今までの静寂が嘘のようにテツナの中で喧しく存在を主張した。透明な水に一滴づつ、確実に墨汁を落としていくように、尊敬の中に混ざってきた別の感情は波紋を作って広がっていく。おかげで知りたくもない思いをしてきた。前より欲深く惨めなまでに追い求めたくなった。嫉妬して、羨望して、悲嘆して、それでも恋慕することをやめることは出来なかった。心はいつだって素直だ。まだ微かでも望みがあるのではと、諦めるきっかけとなる程の大きな何かがあった訳でもなかったから、その僅かな望みを手放すことをテツナは出来ないでいた。

憧れの先輩として、想い人として追いかけ続けた今日までで、自分と大坪の距離は変わっただろうか。高尾に問えば頷いてくれるだろう。ただし前者の問いかけにのみ、で。後者の望みなんて、地上から一つの星の光を見上げるのと同じくらいに小さなものでしかなかった。その光を手にするまでには越えられない壁がいくつもあった。年齢だとか、過ごした時間の長さだとか。他のマネージャーの先輩や同じ出身校の顔も知らない先輩に劣る、埋められない差。一年と言っても、365日も無かった共に過ごした時間の中でテツナはただの後輩でしかあれなかった。どう頑張っても、大坪の中での彼女の位置は変えられなかったのだ。

「すまない」

ただの後輩から、その上へ。テツナよりも、もっと多くの時間を共有してきた先輩達よりも上へ。たった一つしかない、テツナが望んだ大坪の隣と言う特別な場所へはいけなかった。単純にその事実がただただ悲しくて辛くて、結果は目に見えて分かっていた筈なのに、彼女らしくもなく目から溢れるものを止められなかった。望むものは手に入らないとわかった上で、ただ自身の気持ちに清算をつけたいが為に言った言葉に何を期待していたと言うのか。こうなることは分かっていた筈だろう。それを理解した上で自分は言葉にしたのだろう。そう心の中で何度も言い聞かせても、一度溢れた涙は留まることを知らなかった。堰を切ったように溢れ出しては頬を伝うそれは、今まで心に押し留めていた大坪に抱いた感情を最後の一つまで吐き出しているようだった。募らせてきた恋情、感じてきた嫉妬と羨望、追いつけなくて埋められない差へのもどかしさと悲嘆。こんな、成就しなかった恋の結末に涙するなんて、全く自分には似合わない役だと笑えてくる。恋をしたところで、そんな可愛げのある女子には到底慣れないクセに。そう嘲笑する内心とは裏腹に、人の目に映る姿は正にそれだった。あぁ、本当に自分らしくない。不釣合いな役柄を笑ってしまいたいのに、結局最後まで自嘲の為の笑みさえ出てこなかった。
零れ落ちた涙に少しだけ驚いた顔をした後、大坪は困ったように小さく苦笑してテツナの頭を優しく撫でた。それはぐずる幼子をあやすように優しく、慎重なものに感じられた。彼がこうやってテツナに触れるのはこれで三回目だった。一回目も二回目も、秀徳が試合に負けて彼女が泣いた時のことだ。唇をぎゅっと結んで、俯いたまま見えないように部員達の影に隠れて泣く彼女を一番に見つけてくれたのは、同じく涙するマネージャーの先輩でも、よく行動を共にする目敏い友人でも、腐れ縁の友人でもなかった。いつも、大坪だった。彼は何も言わずに傍で頭を撫でてくれた。テツナが顔をあげて、もう大丈夫だと伝えるまで優しく何度も撫でてくれた。けれど、特別な意味合いなんてそこにはない。ただ、慰める為にその手はあった。そして、あの時と今にも何の違いもない。この手の感触も優しさも、一寸の狂いなくただの慰めだ。テツナの望みを叶えてあげられなかったことへのお詫びと懺悔だ。喉が詰まる程にせり上がる感情が苦しかった。上がりそうになる嗚咽をひたすら堪える。困らせるだけの涙なのだから、これ以上流す訳にはいかない。

「ありがとう。でも、ごめんな」

一等優しい声でそう言って、大坪はテツナの頭をあの時と変わらずその大きな手で何度も撫でる。ぽんぽんとテツナが落ち着くまで続けてくれるであろう行為に、分別のつかない小さな子供になったような気分にさせられる。言葉は無くとも、触れる手の優しさはゆっくりと一つ一つ噛み砕いて泣きじゃくる子供諭しているようだった。こんな時まで実感させられる歳の差。埋まらない時間の壁。それが少しまた悲しくさせて、けれどその届かない背中にテツナは憧れていた。憧れのままで終わらせていれば、この涙はもっと純粋で可愛らしいものであれただろうに。彼の中にも一年間苦楽を共にした後輩としてだけ残っただろうに。そう後悔したところで現状が変わることはないし、自身の気持ちも無かったことにはならないと分かっているから、せり上がる感情に飲まれないようにテツナはギュッと唇をキツく結んだ。最後に紡ぐ言葉は一つでいい。

「こちらこそ…ありがとう、ございました」

一年間、主将として前を歩き続けてくれたこと、そして自分の気持ちを真っ直ぐに受け止めてくれたこと。震えて音にならないのではないかと思ったが、感謝の言葉はしっかりと確かに大坪に届いたようで「これからも頑張れよ」と頭上から聞き慣れた低い声が聞こえる。
ありがとう。それは桃色の花弁が開くのを待ち望む、まだ肌寒い青空の下で言うにはとても似合いの言葉だった。大坪の胸元を飾る造花とか手にした真新しい革の筒だとかが、この時期が意味する別れを嫌でも思い出させてまた涙を誘う。再び溢れ出した雫を目にしても、大坪は顔を顰めることもなく苦笑することもなく、今までがそうであったようにただ傍で髪を撫でてくれる。今だけは、この手の平にもう少しだけ甘えることが許される気がした。僅かでもいい、あと少しだけ彼の優しさを独り占めしたかった。だから、今は素直に泣いておこう。困らせたい訳じゃないけれど、こうやって向き合ってもらえる今だけはどうか我儘を許して欲しい。テツナは俯いて目を閉じた。あと数滴の涙が落ちるまでの間、優しい手の平を甘受するために。


恋になれないなら花で飾って


Title by 3gramme.



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