これの続き

何処に何があるのか、それを容易に思い浮かべられる程に、テツナはこの家のことを把握していた。共に住んでいる訳ではないのにこれほど熟知しているのは、つまるところそれだけ相手の家に入り浸っていると言うことだ。自分が使っているシャンプーとは違う匂いがするこの瞬間に、変に心臓が音を立てることはもうなくなったけれども、それは別に相手の存在が自分の中に響かなくなったと言う訳ではなく、その存在を形造るものが自分の中に溶け込んで、自身を造る一部にまでなったと言うことなのだろう。一番嗅ぎ慣れた匂いとは違うそれに対する擽ったい違和感は疾うの昔に消え去っていて、今となっては落ち着きを与えてくれるものになっていた。互いの家のクローゼット内に相手専用のスペースが存在している時点で、些細なことに相手の存在を感じてはどぎまぎしてしまうような、そんな初々しさが今更見つかる筈もない。元から世間一般で言う恋人らしさが足りない二人だったから、付き合い立ての頃でさえ甘酸っぱさは皆無に等しかったけれど、あの頃を敢えて砂糖を入れた甘いココアに例えるのなら、今の二人は水のようなものだった。甘かったり、苦かったりする刺激は与えてくれない。しかし、存在しなければ生きてはいけない。流石に水ほどの重要度があるとは言わないが、互いに相手の存在が日常の中で欠かせない、欠かしたくないものとなっているのは否定出来ない事実であった。何食わぬ顔で居座る二人分の歯ブラシや食器だとかが、緑間の生活空間の中にテツナが溶け込んでいることを証明していた。
毛先から滴り落ちる水滴が鬱陶しくて、首にタオルをかけたままリビングに戻る。ちゃんと乾かしてから来い、と母親のようなことを言われそうだが、そんな小言を一々気にかけはしない。あぁ見えて緑間は実は意外と面倒見の良い人物なのだ。高校からは何かと高尾のお世話になっているようだけど、あまりにも個性が豊かで常識からボール2個分ずれた感覚を持つ面々に囲まれて過ごした中学時代では、どちらかと言えば彼は常識人寄りだった。あくまでも寄りであって、一般常識はあっても何処かずれたものの考え方を緑間もしていたけれど。それでも最後の良心が黒子兄弟であったならば、緑間はその砦を守る城壁だった。常識から少しでも逸脱したことをしようものなら、理屈っぽい言葉をつらつらと並べてのお説教を緑間がしていたな、と懐かしい思い出に浸る。それで効かない場合は黒子兄弟の辛辣な言葉の矢が降るか、黒子からの実力行使が行われていた。黒子が青峰担当なら、テツナは紫原、緑間は黄瀬と言う具合に問題児達は監督されていたものだ。時に子犬のような黄色の彼の手綱を引きながら面倒を見ていた名残で、緑間はよく母親のようなことを言う。終いには、仕方ないと呆れたように言いながらも、あれやこれやとやり出すのだから思わず笑ってしまう。その優しさを少しは高尾に見せてやればいいのに。けれど、きっとそうしないのは彼なりに高尾を信頼している証拠なのだろうとテツナは思う。自分が緑間限定でいろいろと甘えを見せているのと同じように。

「ちゃんと乾かしてから来い」
「そう言われると思った」
「なら行動に移せ。風邪をひくぞ」

ソファーで読書をする緑間の隣に腰をおろせば、案の定、予想した通りの言葉を投げかけられる。そして、この後に緑間がとる行動も手に取るように分かっているから、テツナはそのまま動くことはせずに冷蔵庫から持ってきたミネラルウォーターに口をつける。緑間は優しい。気の合わなかった中学時代の、サボテンのような刺々しさがあった頃に比べて、高校、大学を経て緑間は随分と丸くなった。それは一重にテツナの片割れのおかげであり、高校からの彼の相棒の高尾のおかげだと彼女は思う。逆にその片割れや相棒に言わせれば、ここまで緑間が他者を気にかけ、優しさを見せる言動をするようになったのは他でもないテツナ自身のおかげなのだが、それをテツナが認めるには緑間は多くの人に恵まれていて、彼女がその事実を見つける前に沢山の恩恵の中に埋没してしまうのだった。
ソファーから動く気配もなく、テレビを見始めたテツナに先に折れるのは緑間の方で、やっぱり面倒見がいいとテツナは気付かれないように小さく笑った。読んでいた本を閉じて、緑間はテツナに聞こえるように溜め息を溢す。何を言っても無駄だと分かっているから、それ以上音を発する代わりに呆れたと言いたげな目でテツナを見るけれど、その新緑の色をした双眸の奥には、そうやって無条件に甘えてくれることへの密かな満足感が隠れている。ソファーから立ち上がって部屋を出ていった緑間の行き先は、先程までテツナがいた脱衣所だろう。テツナの髪を乾かす為に、ドライヤーを取りに行ってくれたのだ。自分でその作業をすることを億劫に感じるほど面倒くさがりではないけれど、緑間に髪を乾かしてもらう感覚がテツナは好きだった。お前は子供か等と言いつつも、こうやって物言わず我が儘を態度で示す度に、結局は聞いてしまう緑間の優しさを独り占め出来るのだから仕方ない。いつからこんな甘えん坊になったのか。そう思って苦笑することもあるけれど、きっとテツナがそれを改めようとする日は来ないだろうし、緑間も本心ではそれを望まないだろう。これが二人の愛情表現なのだから。

「黒子」
「なに?」

ポスッ、と頭の上に何かが乗せられる感覚がした。手を伸ばしてそれを受け取れば、今日ここに来る前に迎えに来てくれた緑間が手にしていたものだった。勿論、こうして渡してくるのだからテツナへの贈り物なのだろうが、今日は別段何かあると言う訳ではない筈だ。誕生日だとか記念日だとか、そう言った特別なことに思い当たる伏しはないし、例え今日がそうであったとしても、あの緑間がそれをわざわざ祝うなんて、そんならしくないことをするとは考え難かった。どういう意図があるのかと、緑間を見上げようとしたテツナの頭に続いてタオルがかけられる。それはテツナが首にかけていたもので、そのまま髪を拭き始めてしまったから緑間の顔を見ることは叶わなかった。見るなと言うことか。中学の頃から年齢にそぐわず思慮深い人物であったけれど、今も昔も緑間は時々こんな風に子供っぽいことをする。きっと、柄にもない自分の行動への自覚から顔を赤く染めているのだろう。自分より30センチ以上も背の高い男性相手だが、緑間のそんなところに小さな子供のような可愛さを感じてしまう。大人しくなされるがままになりながら、タオルで緑間から見えないのをいいことにテツナは弛む頬を抑えることなく笑みを溢す。二人の間にあるのはいつだって言葉で表されるものではなく、二人だけが知っている行動で示されるものだ。言葉よりも重みがあって、深く染み渡るような想いを感じられる。タオル越しに感じる緑間の指先はとても繊細に触れてくるので、優しくて擽ったいその感覚が酷く心地よかった。
渡された紙袋はその質感や控え目に記されたお店の名前から見ても、袋の中身は高価なものだと分かる。何より店名を確認した瞬間に、贈り物の正体とそれが意味する内容も気付いてしまった。一体どんな顔をして、どんな想いでこれを買ったのだろう。その過程を想像するだけで十二分に満たされるのだからテツナも大概緑間に惚れ込んでいる。サイズを教えた覚えはないが、それについて言及するなんて野暮なことをするつもりはない。ただ一つ言いたいこととしては、もっと渡し方があるんじゃないのかと言うことなのだけど、自分達にはこれがお似合いなのかもしれないとテツナは思うから、それに関してはそっと口を閉じることにした。言葉が無くても、女性が憧れるシチュエーションじゃなくても、こうやって自分の為に緑間が何かをしてくれることだけでテツナは幸せだった。

「そろそろ名字で呼ぶのをやめてもいい頃だろう」
「さっき自分で名字呼びしてたよ、真ちゃん」
「…その呼び方はやめろ。高尾を思い出して不愉快なのだよ」

丁寧に髪の水分を取っていたタオルが外され、視界が少し明るくなる。振り返って見上げた緑間の顔は、いつもよりほんの少しだけ赤みを帯びているように見えて、それに思わずテツナは笑ってしまった。思っていた通り赤面していたことに、この男でも流石にプロポーズは赤くなるほど照れるものなのかと面白く思う反面、それ以上にテツナ自身も新たなステップを踏んだことへの嬉しさと気恥ずかしさを感じていたから、それらを隠すように笑みを溢したのだった。どうせ緑間がテツナのことを名前で呼べるようになるのも、同じくテツナが緑間に対してそう出来るようになるのも、まだまだ先のことだろうけれど、今この瞬間から変わった自分達の関係が擽ったくて、珍しく緑間も穏やかな笑みを浮かべた。ただこのことを周りに報告する前には、この染み付いてしまった名字呼びを変えるつもりではいる。それが最初の共同作業だとしたら笑っちゃうねと、そう冗談っぽく言ったテツナの言葉に、その方が自分達らしいと密かに緑間は思うのだった。


静かな愛を踏み鳴らす


title by 透徹



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