10
きっかり六時に、半田は来た。
「……こ、こんばんは」
アパートの入り口前まで迎えに来てくれた半田に、むず痒い気持ちになる。いつもは食事場所で集合することが多いのだ。こうして迎えに来るのは車を使うときくらいだから、妙に緊張した。
車の助手席に乗り込んで、半田の顔を盗み見る。……いつも通りだ。ああして週末迎えに来るなんて言われたからおそるおそる準備したのだけれど、もしかしたら、いつも通りの食事かもしれない。
「今日、あの洋食レストラン? いつも行くところ」
「いや、別の店だ。予約した」
別の店。どこだろう。駅前の居酒屋だったら、車で来なくたっていいし、新しい店を開拓したくなったとか、新しいセロリ料理を出す店を見つけたとか。きっとそう。
仄暗くなり始めた外では、街灯が瞬き始めている。
週末の予定ができてから、わたしは沢山考えた。どういうつもりだろう。もしかして、望みがあるのかも、いいや、そんなはず。だって半田はわたしのこと、「刺繍の先生」としか思ってない。あんな情けない告白をしてしまったわたしに「嬉しかった」と言ったのに? いや、半田は優しいから、傷つけまいとしてくれたのかもしれない。
とにかく半田はいつも通り食事に誘ってくれた。だからいつも通り、いつも通りだ。わたしも、いつも通りにする。ちゃんと「刺繍の先生」になる。
なのに。
「…………?」
「どうした」
「い、いや……?」
おかしい。いや、食事はすごくすごく美味しかった。美味しかったのだ。新横浜より数駅離れたところにあるレストラン。いつもよりちょっと価格帯が上だけど、お肉もほろほろですごく美味しかった。
それで少し腹ごなしに町を見ながらでも歩こうか、という話になって。いや、これもそうおかしな話じゃない。今までだった何度もあった。
おかしいのは、ハンターロナルドの話題が極端に少ないことだった。不自然だ。これまでのハンターロナルドの話の割合を鑑みると不自然過ぎて不安になるくらいだった。今まで、十割十分ロナルドの話をしていたわけではないけれど、今日の半田は「ロナ……っいや」なんてあからさまにロナルドの話を避けている。変だ。
駅周辺は洒落た店が多い。いつもなら、雑貨屋を見つけたら夢中になるところなのに、半田の様子のおかしさに気を取られて気が散ってしまう。
「こういうデザイン、好きじゃないか?」
「えっ? うん」
半田が指差していたのは、壁にかけられた時計だった。……そういえば、部屋の時計が壊れた話を、前にした気がする。覚えていてくれたらしい。デザインも確かにすごく好みだし、部屋にもきっと合うだろう。
なんか、デートみたい。
よぎった考えに一人勢いよく首を振った。いや、やってること自体は普段とそう変わらない筈だ。買い物くらいなら一緒にしたこともある。ただロナルドの話題が減っただけだ。
「……大丈夫か」
「えっ何が?!」
「いや、ぼんやりしている。眠いのか」
「いえ?!」
ぼんやりしている間に、半田は自分の買い物を済ませているし、わたしは入り口付近で固まっていた。半田の訝し気な顔に射抜かれて引きつった顔になってしまう。
自分って半田と居る時普段どうしていたっけ。どんな顔で話していたか分からなくなってきてしまった。
「……受け取ってくれ」
「え」
またぼんやりしていたら、半田が何かを差し出していた。小ぶりな掛け時計。さっき話していたものだった。これはもしかして買ってくれたのだろうか。え、どうしてだ。なんで?別に誕生日は近くない。
「なんで?」
「迷惑をかけた」
「え?! いや、迷惑かけたのはこっち……!」
「…………」
「えっと……もらう」
多分、半田はすごく、気に病んでいるのだろうな、と気づいた。吸血鬼対策課として、現場に間に合わなかったことだとか、一応付き合いがあるわたしに、ああして号泣されたことだとか。これはその表れなのだろう。半田の表情を見るとそれが分かって、そうしたらもう断れない。おずおずと渡された紙袋を受け取ると、半田が表情を和らげた。
そこで気づいた。……あ、これ、振られる。振る前の想い出作りだ。半田は優しい。優しいのだ。
「かなり歩いたな」
「ん、そうだね」
振られる、と悟ると、一周まわってもう穏やかな心持ちになれた。傍にあったベンチで並んで座る。半田は甲斐甲斐しくも飲み物を買ってきて、珈琲を差し出してくれた。
夜風は少し冷えていて、頬に当たるとなんだか丁度良かった。周りにはそう人気はなくて、ゆったり話しても隣にいる半田にはしっかり声が届くだろう。珈琲をすする。熱くてちょっと舌先を火傷した。
振られるのに、これ以上なく絶好のロケーションだった。
「…………」
「…………」
半田もわたしも、並び合って暫くの間沈黙していた。隣の、半田の顔を見るのはやはりどうしても怖くて、ただぼんやりと遠くの方に見える観覧車の灯りを見つめていた。
流石に沈黙が続きすぎて、眺めていた観覧車が一周しそうになってしまったので、わたしは覚悟を決めた。
「なんで今日こんな、誘ってくれたの?」
「好きだ」
ことん、と。
手から、するりと珈琲の入っていたカップが落ちて、ベンチの傍に転がる。中身を飲み切ってしまっていて良かった。何故か変に冷静な自分が端っこのほうでそう思う。
気持ちには応えられない。そう言われると身構えていた。だから、ちっとも言葉が理解できない。いや、できる筈ない。そもそもなんて言った。聞き間違いだろうか。いや、聞き間違いだ。それ以外にない。
「好きだ、陽」
「えっ待って……、え、な、なに? えっ」
もう一度繰り返された。わたしは頑なに観覧車を見続けていた自分の顔を、やっと半田の方に向けた。半田もわたしを見ていた。真剣な瞳だった。すごくすごく、真剣な顔をしている。
「……好きなんだ」
言葉が、耳に響いていく。
鉛を飲み込んだみたいに、うまく話せない。なんて言っていいのか、分からない。
「……もしかして、わたしがあんな風に伝えたから」
「関係ない! ……考えて、考えて、この結論になった」
なんで。そう思う頭が止められない。だって、今までそんな素振り一つも無かった。本当に、と、思ってしまう。それなのに、真剣に言う半田の言葉が嬉しくて堪らない。嬉しいのだ。当たり前だった。だってわたしは半田が好きなのだ。好きで堪らない。
自分は今どんな顔をしているのだろう。分からないけれど、多分すごく、情けない、中途半端な顔をしている。
半田が、身体ごと、こちらへ向けた。
「……すぐ誰にでも手を差し伸べるところが好きだ。穏やかな声が好きだ。話を聞いている時の頷きが好きだ。感謝の伝え方が好きだ。緩んだ笑みが好きだ」
「ちょ、っと、待っ」
「好きだ」
「……う、……あ」
一つ一つ、しっかりと言葉にされる。
もう駄目だ。情報量が多い。多いのに、それをすごい勢いで幸福感が上塗りしていく。駄目だ、すごく情けない顔になってしまう。すごく、顔どころか、全身が熱い。さっきまで少し寒いくらいだったのに。心臓の音が、自分の耳にまで届いている。
「最近」
「…………」
「その赤くなった顔も好きだと気づいた……そ、そのだな、付き合って欲しい」
現実感がちっともない。そう思った時に、半田の手が控えめにわたしの掌に触れた。熱かった。ああ、どうしよう。
「う…………」
「泣ッ?!」
「うー…………」
半田に触れていない、空いている方の手で、口元を覆う。これ以上情けない顔を見られたくないのに、目の奥から勝手に涙が溢れ出てくる。なんだか最近、自分でもびっくりするくらい泣いてばかりだった。
震えていると、半田が慌てているのが分かった。ぎょっとして、その手をどうしていいか彷徨わせて、そうして、眉間に皴をぐっと寄せて、不安そうにする。
「う……うれ、うれしい」
何か言わなくちゃ、と思ったのに、変な感想みたいなものが飛び出してしまった。半田が動きを止める。半田は黙って、わたしの顔を真正面から見つめていた。わたしの言葉を、ちゃんと、しっかり、待っているのだ。
「好き。わたしも、好き。大好き。……すき」
「……………………ッぐ、」
もっときちんと言葉にしたいのに、たどたどしく同じ言葉を繰り返すことしかできない。でも、好きなのだ。ちゃんと伝えたい。半田の顔を、しっかり見据えて、滲む視界の中で口を開く。
半田が口をきゅうと結んで、そうして呻いた。へんなかおをしている。
初めて見た、そんな顔。
そう言うと、更に半田の顔が分かりやすく赤くなって、思わず笑った。
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