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04


 どさり、と乾いた音がした。いつもならば屈強な男達が地面に伏して、その中で一角が一人立っているのに、今日は違って、立っているのは大柄な男で、地面に伏したのは紛れもなく一角の方だった。どうしてこうなったんだっけ、ぼんやりとした思考が固まる。心臓が酷くうるさい。世界が少しずつぽろぽろと崩れていくような音が、耳の奥の方で鳴っている。


 わたしはいつものように二人の後をついていった。周辺の地区なんかにも足を伸ばして。そして、あの男が現れた。小さな桃色の女の子を背負った、一人の男。一角よりもずっと大柄で、そこに立つ姿は獰猛な獣のようだった。いや、きっとそんな言葉では生ぬるい。あれは、人を喰らいつくす怪物だ。
 男の瞳に射抜かれた途端、わたしの心臓は大きく軋み、息が詰まり、無意識に体が震えた。わたしの手を握った弓親の手は少し緊張で汗ばんでいて、その額からもまっすぐに汗が落ちていくのがみえた。苦しくて、苦しくて、膝をつく。その場でわたしだけが無様にも腰を抜かしへたりこんでしまう。
 男の後ろに立つ少女のまあるい瞳が、こちらを見つめているのが分かった。彼女はこの空気の中でも身軽なまま、いつの間にかわたしの傍に駆け寄って、こちらの顔を覗き込んでいた。弓親も気づかなかったのか、息をのむような音が聞こえる。少女は対峙する男と一角など意にも介さずわたしの傍で目を瞬かせていた。

「くるしいの?」

 少女の小さな掌が、弓親に握られていないほうの手にそっと重ねられた。背中を往復する手とともに、鈴を転がすような音が「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と繰り返す。ふうふうと短い息を吐きだしているわたしに、少女は「かわいそう」と呟いた。ここで場違いだったのは、たった一人、わたしだけだった。

「やちる」

 男の低い声が聞こえた。わたしは回らない頭で、やちるというのがこの子の名前なのだと、暫く経ってからやっと気が付いた。
 少女は自分を呼ぶ声に目を向けたけれど、わたしの背から手を離すことはなく、男は少女に動く気がないと悟ったようで直ぐにふいと目を逸らした。

 一角と男が戦っている。刀がぶつかり軋む音と、楽しそうな二人の笑う声、息遣い、いろいろなものが頭をぐるりと回っていく。
 弓親はいつものように静かに一角の戦う姿を眺めていた。

「……だいじょうぶ、こわくないよ」

 少女の言葉に返す余裕などあるはずもない。

「剣ちゃん、楽しそう」

 ふふ、と嬉しそうに笑う少女の声が聞こえる。ばくりばくりと心臓が鳴り響いている。震えながら、戦う二人に目を向けた。一角も、楽しそうだ。すごく、楽しそうに戦っている。怖くて苦しかったけれど、それだけは分かった。

「…………ほんとだ、」

 あんなに楽しそうな一角、初めて見た。苦しいのに、嬉しかった。思わず頬が緩んで、女の子の瞳が楽し気に細められたのが見えた。
 それからのことは、あんまりきちんと覚えていない。

 ただ、気づけば一角は地に伏せていた。最悪の状況を想像して立ち上がろうとしたわたしの手を弓親がぐっと握る。「睦」という弓親の固い声が聞こえた。
 一角は細く息をしていた。ひゅう、とか細い音が聞こえて、思わず安心してこわばっていた肩から力が抜けた。依然としてへたりこんだままでいるわたしの髪を少女はひと撫でし、「じゃあね」と無邪気に笑うと、こちらに背を向け男の下へと駆け寄っていった。

「…………どういう、気、だ」

 苦し気な、息の混じる声が聞こえた。一角が、地面に伏せながらも顔をあげ、男へと絞り出したように声を出す。

「なんで、止めを刺さねえ…………!」

 心底納得できない、そんな震えた声が耳を揺らす。生暖かい風が頬を撫で、血の匂いを感じた。男を仰ぐ一角の言葉に滲む焦燥感と切実さに気づき、言葉が、息すらもうまくでない。
 「てめえの勝ちだ! 殺していけ!」という一角の叫びが、頭を揺らす。

「……悪いな。戦えなくなった奴に興味はねえんだ。わざわざ殺してやる義理もないしな」

 男はなんてことないようにそう言ってのける。ぼたり、と一角の腹から血が流れ、水たまりのように広がっていく。

「ふざけんな……馬鹿にしてんのか! 殺せ!」

 折れて転がった一角の刀がみえた。男は一角の言葉に僅かに眉をひそめ、数歩で距離をつめると、一角の胸倉をつかみ、乱暴に引き寄せた。ぽたり、とまた血がたれる。

「ふざけんな」

 獣の剣呑な瞳の奥が、見えた気がした。

「てめえも戦いが好きなら、殺せだ何だと喚くんじゃねえ。負けを認めて死にたがるな! 死んで初めて負けを認めろ!」

 男の言葉がびりびりと、辺りを震わせている。わたしの細い息などかき消すその音は、その場にいる全員の意識を強くさらった。

「負けてそれでも死に損ねたら、そいつはてめえがツイてただけのことだ。そん時は、生き延びることだけ考えろ」

 鮮烈な色が、視界を染める。以前にも感じたことのある、感覚だった。

「生き延びて、てめえを殺し損ねた奴を、殺すことだけ考えろ」

 男の口元が心底楽しそうに吊り上げられた。

「生きて俺を、もう一度殺しに来い」

 どさり、という音と共に、一角の体が崩れ落ちる。呆けたような顔で、一角は男の背を瞳で追った。男はもう言うことはないと、じゃあな、なんて軽い言葉と共に背を向けて歩いていく。
 一角がもう一度だけ「待ってくれ」と声を荒げた。あんたの名を教えてくれ。その言葉に含まれた色を、感情を、わたしが知る日は来るのだろうか。

「剣八だ。……更木の、剣八」

 ついに男は、そう名乗ると、二度と振り向くことはなかった。ただあの少女だけが一度こちらへ視線をよこし、ひらりと手を振った。
 一角はそのまま崩れ落ちるように地面に伏して、死んだように眠っている。細い息だけが、彼がまだ生きていることを示していた。弓親が、いつもと変わらない様子で一角を背負う。
 わたしの頭には、あの男の言葉が、表情が、その存在がいまだ焼き付いている。それはきっと弓親も同じなのだろう。
 耳の奥で、何かが変わってしまうような、そんな音がした。


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