20
「……睦か?」
ゆらゆらと、一角の瞳の奥が揺らいでいる。いいや、もしかすれば、わたしの視界が潤んでいるだけなのかもしれない。頬に伝った水分が鬱陶しい。
一角は暫くの間呆然とした様子でわたしの顔を見つめていたけれど、そのまま真っすぐと、わたしの目の前へと歩み寄ってきた。前よりも少しだけ、目線が近くなった気がする。
「…………お前」
心の底から暖かいものがこみあげてくる。胸の奥がつかえているような感覚なのに、嬉しい。覚えているかな、わたしのこと。少しの間しか一緒に居なかったから、ここに来るまですごく時間がかかってしまったから。
「…………ッふん!」
「い、?! ッだ?!」
久しぶり、とありきたりな言葉を言おうとした。なんて言って良いかわからなかったから。けれど口を開きかけた時、突然、がつん、と音がして、鋭い痛みが走った。口から零れるはずだった言葉は情けない悲鳴に変わる。一瞬何が起こったのか分からずに、わたしはちかちかした視界をそのままに頭を抱えてしゃがみこんだ。何秒もかかって、頭突きをされたのだとやっと気づいた。
「な、なんで……い、痛い、すっごい痛い」
「お前…………今までどこで何してた?」
「え?」
「お前な…………俺がどれだけ…………」
痛みから滲んだ涙をそのままに顔を上げてみれば、口元を引きつらせる一角の顔に浮かぶのは紛れもない苛立ちだった。どうして彼が怒っているのかちっとも分からない。全然理解が追い付かずに、間抜けに口を開けたまま固まってしまう。
やちる副隊長は何が可笑しいのか「おでこ真っ赤!」と笑い転げていた。
「行くぞ」
「え」
「来いクソガキ」
がっ、と掴まれたのは耳だった。そのままぐいぐいと引っ張られてわたしは訳も分からないまま引き摺られていく。痛い、と文句を言っても一角はちっとも止まってくれなくて、わたしは足を縺れさせながらよろよろと進んだ。去り際に、やちる副隊長が無邪気に「またね」と笑ったのがなんとも空しい。助けてください、と言おうとして目線をそちらへやったら、わたしの縛道が解けて何とも言えない顔をしている十一番隊の隊士が見えた。
一角が迷いなく進んでいった先は、ある隊舎だった。目に入った「十一」の文字にわたしは思わず息を飲む。足を止めそうになったわたしになど構うことなく進む一角に恨めしい視線を送っても、彼はわたしの視線になんて見向きもしなかった。廊下を通るとそこにはもちろん十一番隊の隊士が居て、誰しもがギョッとした後「お疲れ様です!」と一角に威勢よく声を張り上げている。なんだか暑苦しい隊だ。
一角はある一室の前で足を止めると、やっと耳から手を放してくれた。じんじんと痛む耳をそっと摩っていると、一角は険しい顔のまま乱雑に扉を開ける。ガラガラ、と鈍い音と共に戸が引かれ、彼はまごつくわたしを無理やりに部屋の中へ押し込んだ。
「ちょっと一角、副隊長は見つかった、の…………」
ああ、どうしてこう、二人ともおんなじ顔をするんだろう。
部屋の中で一人、書類に向かっていた顔をあげた男――弓親は、一角に声をかけようとしたのだろう。しかし部屋に踏み込んだわたしの顔を見て、幽霊でもみるような顔で目を見開き固まっている。わたしはどうしたらよいのか分からずに、そっと曖昧に微笑んだ。けれど緊張からか口の端が痙攣したようにしか動かなかった。二人に会ったら、何を言おうとしていたのだっけ。そう考えても思考が上手くまとまらないのだ。
「……睦?」
「うん、弓親」
久しぶりに声に出した彼の名前はやはり綺麗だった。それにしても、弓親は最後の記憶よりももっと綺麗になった。昔からずうっと綺麗だったけれど、短く切りそろえられた髪も似合っている。
弓親は暫く呆然としていたけれど、ゆっくりと立ち上がって、ふらり、とわたしの目の前まで足を進めた。目の前に立った弓親とも、やっぱり前よりも少しだけ、目線が近くなったように感じて嬉しかった。
弓親が俯いて、「睦」ともう一度わたしの名前を呼んだ。わたしはそれにこたえようとしたけれど、再度顔をあげた弓親の表情に、固まってしまった。
紛れもなく、怒りがこもっていた。目には剣呑な色が灯ってわたしを射抜いている。
「今まで、何処に居たんだい」
「え、っと」
ぎり、と弓親が奥歯を噛みしめているのが分かった。こんな弓親を見るのが初めてのことで、わたしは完全に止まってしまう。
わたしの後ろに立っていた一角が、わたしの肩を押した。わたしはぐらりとバランスを崩して、傍にあった椅子に座りこむ。
「説明してもらおうじゃねえか」
「ああ、全部ね」
二人に見下ろされて、わたしはぽかんと口を開けたまま呆然とした。だって、あまりにもわたしが想像していた再会とは異なっていたから。沢山の可能性を考えていたけれど、こんな怒りに燃ゆる瞳を見ることになろうとは。
△△△
何を話せばいいのだろう。そう思いながらも、二人に言われた通り、わたしは今まであったことを順当に、たどたどしく話した。二人が瀞霊廷へと向かった後、わたしは変わらずふらふらと生きて、ある日虚が現れたこと。それを倒した死神に、わたしが死神になれると言われたこと。霊術院に進んで、六年間学んだこと。わたしが話せば話すほど、二人の顔は苦いものを噛んだように歪められて行って、わたしの声もそれと同じくして小さくなる。
どうしてこんなに怒っているのだろう。やっぱり、今更会いに来たのが気色悪かったのかもしれない。偶然、片手間で相手にした子供が、態々死神になってこんなところまで来て。
「どうしてもっと早く会いに来ねえんだ、お前は」
「…………へ、?」
俯いていたわたしに落とされた言葉に、思わず口を開けた。顔をあげたわたしの顔は、きっととても間抜けなものだっただろう。弓親が、「心配したんだよ、睦に会いに行っても居ないから」と言葉を繋ぐように言って、眉を顰める。けれどその言葉はわたしを混乱させた。だって、予想もしなかったことだった。まさか、二人は、来てくれたのだろうか。
「会いに……来てくれたの?」
「はぁ?」
苛立ちを濃くした一角とは裏腹に、弓親はその言葉に不意をつかれたように目を見開いて、そうして顔を歪めてそっと額に手を当てた。「なるほどね」と零れた言葉は、合点がいった、とでも言いたげだ。
「一角が、あの日思ってもいないこと言ったからだよ」
「あ?」
弓親が、ふう、と呆れた風に息をついて一角に視線を向けた。一角は自分の名前が出たことに訝し気な顔をしている。弓親がそっと膝を折ってわたしへ視線を合わせた。さらり、と艶やかな髪が揺れる。弓親からは、あのころとは全然違う香の匂いがした。それなのに、紛れもなく懐かしい香りがした。
「もう会うことはないって言ったから。だからこうやって会いに来てくれたのかい?」
酷く優しい声色が、わたしの耳を揺らす。仕方なさそうに言う彼にわたしはなんだか胸の奥がぐっと詰まったように痛んでしまって、頷くことしかできない。視界が潤む自分が情けなくて、顔を伏せると、弓親の綺麗な指先がわたしの目尻に触れた。滲んだ涙を軽く拭われる。
「……迷惑だろうな、って、思ったけど。でも会いたかったの、二人に」
「うん」
「でも、でも、二人に会うにはわたしが追い付くしかなくちゃって、」
「うん、」
「ごめんなさっ、……ごめんなさい、勝手に、来て」
弓親が、そっとわたしの頭に触れて、顔にかかっていた髪を耳にかけてくれる。広くなった視界で、弓親が笑っている。酷く久しぶりの感覚だった。触れているのに、夢見心地で、胸の奥が痛くて、けれど確かに暖かかった。
「ありがとう、会いに来てくれて」
弓親はそう言ったきり、情けなくぼろぼろと泣きじゃくるわたしの背を優しく撫でていた。ずっと、ずうっと会いたかったの。ごめんなさい、会えてうれしい。そんなことを、たどたどしく呟いていると、ぽす、と頭に重みがかかる。
僅かに視線をあげれば、一角が少しだけ苦々し気に顔を歪めて、どうしていいかちっともわからない、と言いたげな顔でわたしの頭に手を伸ばしていた。がしがしと乱暴にかき回されて、わたしはぽかんと彼の顔を見上げる。
「もう勝手に居なくなるなよ、クソガキ」
めんどくせえ。そう付け足してわたしの頭を撫で続ける一角に言いたいことは沢山あったけど、わたしは上ずった間抜けな声で「うん」としか返せなかった。弓親は、楽しそうに笑っている。
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