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 多分、魔が差したというやつだ。
 今日の分の仕事を終え、階段を降りて行けば、なまえがソファに横になって眠っていた。雑誌を読みながら寝落ちしたらしく、ファッション誌が傍に中途半端なページで開かれたまま放られている。開かれているページにはいかにも彼女が好きそうなワンピースが載っていた。
 部屋はエアコンの冷たい風で満たされていて、少し肌寒い。設定温度を見ると二十四度になっていて、苛々しながら温度を上げた。どういう思考でこの温度にしたんだ、こいつ。冷たい風が直撃する部屋で腹を出して眠っていて、終いにはよだれまで唇の端から垂れていては確実に風邪を引くだろう。

「まったく、何でぼくがこんなことしなくちゃあいけないんだよ……」

 仕方なく彼女の部屋まで行ってブランケットを取りに行ってやる。こんなやつに何でわざわざ。そう思っても、彼女に風邪を引かれて、そうして自分に移るようなことがあれば最悪だ。不安の種はつぶしておくに限るだろう。それだけだ。
 去年の秋ごろに彼女が買った、卵の殻みたいな、薄いクリームのブランケットを取り出した。肌触りがいいからと大層気に入っていて、一年中くるまっている。それを持ってソファに近づくと、彼女は未だ眠っていた。すう、と寝息をたてながら安らいだ表情をしている。ぼくの苛立ちを他所に随分と呑気な顔だな、そう思いながらブランケットをかけようと身を乗り出すと、ぼくの影が、彼女の顔にかかる。
 ふと、隙間なく閉じられた瞼にかかる睫毛が、意外と長いことに気づいた。唇が薄く開かれて、その端からは若干よだれが垂れているのが何とも言えないが。そう、何というか、色気には欠けていて、緊張の欠片も無いのに。どうしてだろうか。
 綺麗だと、そう思った。
 悪くない表情だった。穏やかで、暖かみのある表情だ。ああ、スケッチブックを取りに行こうか。そう思考の隅で考えながら、ぼくはブランケットを握りしめ、顔を近づけた。多分、きっと、魔が差した。それ以外にないだろう。
 唇が触れ合った。柔らかな感触と、普段から高めの彼女の体温を感じた。彼女は子供みたいに、体温が高い。

「……ん、」

 彼女の唇から声が漏れた。何が楽しいのか、彼女の表情が緩められる。阿保みたいな顔だな、そう言おうとして、ぼくはその違和感に動きを止めた。……笑ってないか、この女。

「……おい、」

 緩んだ唇が、ふるふると震え始めた。ぼくは起き上がってなまえの鼻をつまむ。

「んぶっ」
「おい、起きてるだろ……」
「ふ、んっふふふふ……!」

 吹き出した彼女の口からついに笑い声が漏れ出し始めた。肩を揺らしながら震えている。いつの間にか閉じられていた瞳も開かれていた。
 ソファに横たわりながら、なまえはぼくを見上げて笑っている。ぼくは何と言っていいか分からずに、とりあえずにやけた顔に持っていたブランケットを投げつけた。「うわ」と間抜けな声が上がり、それも気に障った。

「いつから起きてた?……いや待て、やっぱいい、言わなくていい」
「露伴が顔を近づけてきた辺り」
「言うなって言っただろ!」

 ブランケットを手で引き下げて、彼女がぱっと顔を出す。満面の笑みを浮かべて、酷く優しく笑ったまま、こちらを見つめている。ぼくは苛立ちやらなんやらでどうにかなってしまいそうだった。

「結構優しいちゅーするよね、露伴って」
「もう何も言うな」
「んっふふ、露伴が寝ている彼女にキス……」

 もうこのままなまえに馬鹿にされ続けるのは明らかだったので、黙らせたくてもう一度ブランケットを押し付けて口をふさいだ。それでも彼女のにやけた表情は変わらずに、こちらを見透かしたように見つめている。
 彼女の手が、ぼくのブランケットを握る掌に重なる。緩く手を握られて、彼女の体温が伝わってくる。部屋は寒いほどだったはずなのに、今は酷く暑かった。

「ね、もういっかい。ちゃんと起きてるときにして?」

 ああ、嫌だ。なんだよその顔。いつもは呑気で馬鹿みたいに笑っている癖に、こんな時だけ、そんな風に。そして確かに苛立っている癖に、彼女の口にかかった薄い布をどかしてしまっている自分も嫌で仕方なかった。

「起きてたんだろ、さっきも」

 もう一度、顔を近づける。仕返し代わりに唇をんでみても、彼女は笑うだけだった。