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 穏やかな夜だった。かすかに外からは虫の音が聞こえ、時折吹く風が木々を揺らしている。いつもならすでに心地よい眠りのなかに居るはずだった。しかし何故だか今日は眼が冴えてしまっていて、わたしはどうにも寝付けない。肌にまとわりつくような蒸し暑さ故だろうか、それとも自身でも気づかないような不安が、心の奥で燻りでもしているのだろうか。布団に横たわりはしたものの、目を閉じたってほんの少しの眠気もやってこない。何度目か分からない寝返りをうった。
 ぼんやりと、襖の向こうを見つめる。
 向こうの部屋はとうに静まり返っていた。しかし、きっとそこには近侍の大倶利伽羅が眠って居るはずなのだ。

「…おお、くりから」

 もう彼も眠っている筈だ。邪魔はしたくない。それでもわたしはほんの少しの希望を捨てられず、そっと彼の名を呼んだ。息を落とすようにささやかなそれは、ともすれば、傍に居ても聞こえるか、不安なほどの声だっただろう。
 しかし大倶利伽羅は案外はっきりとした声で、すぐに襖の向こうから返事をしてくれた。

「……なんだ」

 落ち着いた声が、穏やかに響いている。その声が聞こえるとなんだかわたしはほっとして、思わず頬を緩めた。少しだけ強張っていた肩から、力が抜ける。

「起きてたんだ」

 大倶利伽羅に向けて、先程よりも少しだけはっきりと、声を出す。わたしの言葉に彼は答えず、その代わり、ただ「どうした」とだけ聞いた。
 わたしは大倶利伽羅の、いつもの中々崩れない表情を思い出してそっと笑う。

「なんだかね、眠れなくて」

 大倶利伽羅の返答は無い。それでも嫌な気持ちにはならなかった。いつだって、彼はわたしの言葉に耳を傾けてくれているのだと、知っていたからだ。視線が交わらなくとも、答えが無くとも、彼はわたしの言葉をきちんと聞いてくれている。
 胸の奥が穏やかだ。感じていたもどかしさも不安もなりを潜め、今はただ、心地良い暖かさの中に居るようだった。

「ねえ、大倶利伽羅。子守唄歌ってよ」
「断る」

 ふと思い立って、揶揄い半分でそう言ってみた。そうすればすぐに返ってきた言葉に、ふふふ、と声をあげて笑う。「なんで?」と笑いながら問いかければ、「馴れ合うつもりはない」といつもの文句が不機嫌そうに聞こえてくる。

「長谷部は頼んだら全力で歌ってくれたけどなあ……まあ、眠れなかったけど」

 ずっと前に、長谷部が歌ってくれたビブラート調の子守歌を思い出す。すごかったなあ、あれ。この部屋が一瞬で大ホールへと変わったかと、錯覚しそうな程だった。

「大倶利伽羅の子守歌、聞きたいなあ」
「断る」
「寝かしつけも近時の仕事の一つだと思うけどなあ」
「…………」

 職権乱用。パワハラ。そんな四文字が頭に浮かんだ。大倶利伽羅は完全に向こうで沈黙していて、わたしは「仕事放棄」と続けて言おうとした口を噤んだ。ふざけすぎた。そろそろ怒られてしまいそうだ。ほんの少し意地悪だったかも。そうだ、仕事、なんて言ったら大倶利伽羅は気にするかもしれない。彼は責任感が強いから。
 静かになってしまった部屋で、わたしは「ごめんね」と言おうと口を開いた。もう流石に眠らなくては。わたしも、彼も。

「…………ね、ん、ねん」
「え」
「ねん、ねん、ねんころり」

 襖の奥から、控えめな、穏やかな声が響いてくる。優しくて、穏やかな声だ。小さくて、聞き逃しそうになるけれど、わたしを安心させてくれる彼の声に違いなかった。
 わたしはいつの間にか布団から完全に起き上がって、襖のほうをじっと見つめていた。間抜けに口を開けたまま固まって、耳をすます。

「………………」
「満足したか」
「へ?」
「あんたの言う通り歌った。満足したか」
「あっ、はい、すごく」

 喉の奥から、変な声が出た。
 それなのに大倶利伽羅はいつもと変わらない調子でいるものだから、わたしは先程の出来事がまるきり夢か、もしくは眠れないわたしの妄想なのではないかと思い始めていた。しかしあの穏やかな声はまだしっかりとわたしの耳に残っていて、心臓の方をざわつかせている。

「満足したなら、早く眠れ」
「いや」
「は?」

 襖の向こうから、少しだけ苛立ちの混じった声が聞こえた。それは彼が気まずい時や珍しく照れる時の声に似ている。
 わたしは未だに布団から身を起こしたまま、彼のほうを見つめていた。

「興奮と驚きで完全に目が覚めた」
「……知るか」

 もう歌わないからな。そう続けられた言葉に、ああ、じゃあやはり、さっきのことは紛れもなく現実なのだな、とぼんやり思った。どうやらわたしは、煩いくらいに鳴る心臓を抱えながら、このまま眠りに落ちなくてはならないらしい。