温厚な人だというのが、初めの印象だ。そうして共に並んで歩く度に、正義感が強くて実直で、とても熱い人だと分かった。こちらへ微笑む姿はいつだって優しく暖かくて、不安な時でも心をほっとさせてくれる。
「君が、こんなにも考え無しだとは思わなかった」
それなら、目の前でこんなにも激昂するこの人は、一体誰なのだろう。少しだけぼんやりとした頭でそう思った。
アヴドゥルさんは酷く鋭い瞳でこちらを真っ直ぐと見据えている。その中には拭えない怒りや悲しみが燻っていた。勝手にも褒めてくれるかな、なんて考えていたわたしは、心臓がすうっと冷えて肩が少しだけ震えてしまう。落ち着かない掌を握って、視線を逸らした。
「だ、だって……」
「だってじゃあないッ!」
どん、と鈍い音と共に目の前のテーブルに拳が叩きつけられた。机の上に乗ったグラスが不安定に揺れる。
彼の瞳が、わたしの腕へと向けられた。そこにぐるりと巻かれた包帯の下は本当に大したことはなくて、痛みだってもう殆ど無い。大袈裟なこの街の医者に無理やり巻かれたものだ。そう、あの医者が風変わりなだけ。確かに攻撃を受けてぱっくりと切れてしまったけれど幸運にも傷口は浅く、問題は無かった。
「こんなの、全然大丈夫ですよ」
重い空気を断ち切りたくて、明るい声と一緒に頬を吊り上げる。上手く笑えているだろうか。しかしアヴドゥルさんは「馬鹿を言うな」と唸るように言うだけだった。
暫く部屋の中に沈黙が響く。病院の一室は消毒液の香りが充満していて、わたしはどうにも好きにはなれない。一刻も早くこの場所から立ち去りたかった。喧騒は遠い。わたしと彼以外の皆は、この先の進路の確認の為に少し前に病院を出てしまった。わたしは念の為に医者に診てもらい、そうして問題が何も無いことが分かった。それなのに、どうしてこんなにも彼は難しい顔をするのだろう。
「あの、」
空白を消したくて、声を落とした。彼のはっきりとした瞳がまたわたしに向けられて体が固くなる。何も考えずに口を開いてしまったから、またすぐに沈黙が産まれてしまう。
沈黙は嫌いだ。またいつものように穏やかな声でわたしの名前を呼んで欲しいのに。
「……なまえ。どうして、わたしの前に飛び出たりしたんだ」
絞り出すように、アヴドゥルさんはそう言った。咎めるような声がわたしの鼓膜を鈍く刺して、居心地を悪くする。怒りを押し殺しながらこちらへ言葉を投げかけているのが分かった。
敵の攻撃が彼に向けられたと分かった時、前に飛び出したのは無意識に近かった。もっと上手くやれば良かったのだけれど、残念ながらわたしには良い考えも強い力もこれっぽっちも無かったのだ。
「どうして、」
語気を強めて彼がそう重ねる。
どうして、なんて。そんなの。目の前に居るこの人が、暖かくて凛々しいこの人が大切だからに決まっているのに。
どう言葉にしていいのか分からずに、唇を噛んだ。喉の奥に声が張り付いてしまったみたいだ。
「役に、……立ちたかったんです」
絞り出して震えた声が、部屋に響く前に消えていく。声が情けなく震えるのを抑えたくて、拳を固く握りしめたのに、結局変に揺れてしまった。
初めは、誇らしくさえ思っていたのに。この包帯が巻かれた時に、自分が役に立てたような気がして。この人が怪我をせずに済んだ、だから、良かったと。そうして喜びさえ感じたのに。それなのに、今では心臓が痛くて、悲しい。
「…………すまない」
ぽつ、と落とされた言葉が信じられなくて、眉を寄せた。悲痛な顔をしたアヴドゥルさんが顔を歪めて、もう一度「すまない」と言う。
「な、なんで、」
「わたしの責任だ。……わたしの油断が君に傷を負わせた」
「ち、違います!」
そんな風に思って欲しい訳じゃ無い。立ち上がろうとしたわたしの肩を、彼の大きな掌がそっと掴んだ。そこから伝わる熱が、わたしを苦しくさせる。「違わないさ」という彼の声が、頭を回っていく。
怪我なんて覚悟の上なのに。全部覚悟した上で貴方に着いてきたのに。
「ただ、……ただ、もうこんなことは、やめてくれ」
意志の強いその瞳と、目が合った。わたしの顔を覗き込んだアヴドゥルさんはそっと手を伸ばしてわたしの頭に触れる。
「目の前に君が出てきた時、本当に肝が冷えた」
切実な色を孕んだ声だった。わたしは漸く、そこで彼の指先が少しだけ震えていることに気づいたのだ。
「……まずは、自分の身を最優先に考えるんだ、分かったか?」
再び肩を掴まれて、言い聞かせるように、彼は言った。わたしはゆっくりと頷いたけれど、きっとまた彼が危険だと思ったのなら、何も考えずに前に出てしまうかもしれないと思った。
わたしが頷いたことにアヴドゥルさんはほっとした顔をして、やっとまたいつものように穏やかに笑う。
「アヴドゥルさん、」
肩に置かれた掌に、そっと自分のそれを重ねた。ぴくりと彼の身体が震える。
「貴方も、ちゃんと自分のこと、大事にして下さいね」
無茶は、しないで。
わたしの言葉にアヴドゥルさんは目を細めて笑った。けれどその笑顔はわたしを安心させてはくれなくて、わたしは掌に力を込めてしまう。彼は仕方なさそうに、空いている方の手でわたしの頭を控えめに撫でた。力が入っているような入っていないような手は彼らしくて、こんな時くらい抱きしめてくれたら良いのにとぼんやりと思う。わたしは嬉しいような苦しいような心地で、そっと目を閉じた。穏やかな熱が、わたしに触れる。
△△△
「……酷い、人」
ついた膝から伝わる、床の冷たく固い感触が、わたしの思考を引っ張り上げて、これは現実なのだと、嫌でも言い聞かせる。
あの時言った癖に。わたしには、自分の身を優先しろなんて言っておいて、自分は容易く前に飛び出て。
「終わりましたよ、全部」
いつか触れた、あの人の厚い掌を思い返しながら、そう呟く。
「…………」
嘘つきと詰りたい気持ちと、仲間を救ってくれた感謝と、一緒に行きたいなんて陳腐な思いが、ぐちゃぐちゃに混じり合って、そうして言葉にすらならずに消えていく。
あの時の彼の声が、言葉が、表情が、熱い掌が、ずっとわたしの心臓を縛り付けていた。きっとこの先ずっと、わたしはこの熱を胸の奥に燻らせたままだ。どんなに痛くても。