※現パロ
クラスに鯉登くん、という人がいる。鯉登くんはいつも背筋がぴん、と伸びていて、そうして礼をする時はぴしっと礼をする。号令をかける時も、先生に当てられた時も同じくらいに、はきはきと話す。それに、
「字が、きれい」
ぴく、と肩が揺れて、彼のきりりとした瞳がこちらを向いた。
教室には今日の日直を任されたわたしと鯉登くんしか居なくて、つまりは二人しか居なくて。彼の書く「今日のひとこと」がとても綺麗だったから、わたしは思わずほう、と感嘆の息を漏らしてしまったのだ。そうして殆ど無意識に飛び出した言葉が彼に受け取られてしまったことにとても驚いて、体が固まる。心臓もぎゅう、と固くなって息が詰まった。
「あ、……と、えっと、」
何か言わなくちゃ、と色んな音が口から零れていくけれど、そのどれもが意味を持たずに消えていってしまう。恥ずかしくて堪らずに、わたしはぎゅう、とスカートの裾を握った。手の中は変な汗をかいていて、居心地が悪い。
「あの……」
「わいも」
わっ、とまた変な声が出てしまった。鯉登くんが、こちらをじっと見て、丁寧に言葉を紡ぐ。
「わいも、きれいじゃ」
はっきりした言葉が耳に届いて、熱を生み出していくみたいだった。その意味を飲み込むまでにとても時間がかかって、むしろ飲み込めても納得はできなくて、ぽかんと口を開けてしまう。
「硬筆ん字、わっぜ丁寧に書かれちょって綺麗やった」
鯉登くんが、教室の後ろへ振り向いて、また念を押すようにそう言った。目線の先を追うと、そこには昨日提出した硬筆の紙が掲示されている。クラス全員の分がずらりと並んでいて、上手い子の端には、金色と銀色と、銅色の紙がそれぞれ付いている。鯉登くんのには、金色。わたしの文字には、なんにもついていない。
わたしはとても恥ずかしくなって、必死に首を横に振った。何にも賞がついていないわたしの文字が綺麗な筈がないのだ。
「綺麗じゃないよ、全然、……なんにもついていないもん」
「賞なんて関係なか」
鯉登くんはすごく当たり前のことみたいに、そう言った。いつも通りはきはきと喋る彼にわたしは何も言えなくて、ただもう一度首を横に振った。
「わいはだいよりもけしんかぎぃ書いちょったじゃろ」
「け、けしんかぎぃ」
「……一生懸命って意味や」
「いっしょうけんめい」
「そうじゃ」
言葉を繰り返すと、鯉登くんが少しだけ頬を緩めて頷いた。わたしは凄く心臓が早く動いてしまって、誤魔化すみたいに、口の中で「けしんかぎぃ」ともう一度呟いた。
「努力したわいん字がいっばん綺麗じゃ」
鯉登くんはどうしてか、酷く得意げにそう言った。けしんかぎぃ、その言葉が胸の奥の方をぽっと灯して暖める。字を褒められたのは初めてのことで、わたしはとても恥ずかしくて、そうしてとても嬉しかった。
ありがとう、という言葉は多分すごく消えてしまいそうなほどに小さくて、か細かったけれど、鯉登くんはそれをしっかり拾い上げて、しっかり頷いてくれた。
△△△
「なまえ、どげんした」
昔のことを、思い出していた。それは多分目の前の紙に書かれた文字がやっぱり綺麗で、丁寧で、すごく愛おしかったからなのだろう。
「ないかあったか?」
音くんが、不思議そうに顔を覗き込む。そわそわしてるのは、きっと勘違いではないだろう。わたしは思わず可愛いなあ、と笑ってしまう。
「音くんの字、昔から綺麗だなあって」
鯉登音之進。その綺麗な文字達にわたしの名前を並べるのが少し恥ずかしい。
わたしはペンを握っていないほうの指先で、そっと彼の名前に触れた。美しくて、力強くて、暖かい。そんな彼の字が好きだ。
「……わいも、綺麗じゃ」
少し照れたように、彼が言う。その言葉がまた懐かしい光景を掘り起こして、ふふふ、と笑った。こちらを見て音くんはむっとして、手を引くとぎゅっと握った。
「本当や。昔から思うちょった」
一つ一つ、しっかりとした声が鼓膜を揺らす。その声を聞く度ににわたしは胸の奥がぎゅう、とむず痒くなる。掌から温もりが伝わって、頬が緩んだ。
「字だけじゃなか。なんちなけしんかぎぃやっなまえが好いちょっ。一つ一つ大切にすっなまえが」
ぐ、と手に力が込められた。わたしもその大きな手を握り返す。
いつだって、彼はわたしのちょっとしたことを拾い上げてくれる。すっと背を伸ばして、真っ直ぐな瞳で見つめて、はっきりとした声で。どれだけわたしはそれに救われてきたのだろう。
「わたしも、大好き。……音くんのはっきりした声も、強く手を握ってくれるのも、朝にほんの少し弱いのも、好き」
「キェッ」
「照れ屋なところも、好き」
ぐっ、と音くんが息を飲んだ。じわり、と耳が赤くなって、思わず笑ってしまう。
わたしはゆっくりと、ペンを動かして、自分の名前を彼の隣に並べた。やっぱりまだ少しだけ恥ずかしくて、くすぐったい。でも、彼が好きだと言ってくれるから、わたしもこの文字を好きになっていく。
「……どうしよう、すごく幸せだ」
「当たり前じゃ」
音くんが、得意げに笑う。この人と、わたしは生きていく。好きなところを増やしてくれること人と。あったかくて、力強くて、可愛いらしい、この人と。