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近所に住むヤギさんは、なんだか不思議な人だ。背が高くてひょろりとしている。目の前に立っている時は、少しだけ首を痛めそうになる。会う度いつも、もっとカロリーを摂った方がいいんじゃないかな、とこっそり思うけど、流石にそんなこと面と向かって言えない。言えないので、わたしはカバンの中の菓子パンをあげる。栄養云々は抜きにして、まずはカロリーをとるべきだ。

「あ、こんにちは」

ヤギさんのことを考えていたら、丁度向こう側から彼が歩いてくるところだった。ほんの少し猫背気味のあの人は、やっぱり遠くから見たってひょろひょろだ。
わたしはこっそりカバンの中に手を入れて、指先で今日買ったクリームパンがはいっていることを確認した。かさり、とした紙袋の感触を感じる。
ヤギさんもこちらに気がついたのか、手を振って「こんにちは」と返してくれた。優しげな瞳と目が合うと、なんだか胸がじんわりと温かくってふわふわとする。

「仕事帰りかい?」
「はい。今日は残業してきたので……ヤギさんもお仕事ですか?」
「うん」

うん、と頷くヤギさん。とっても可愛らしい。また胸がむずむずとする。頬の端がだらしなく緩まないように、わたしは少しだけ顔に力を入れた。そうしてなんてことのない、今まるで思い出した振りをするように、「ああ、」だなんて声を出してみる。わたしは鞄に手を突っ込んで、ずいっと彼に小さな紙袋を差し出した。

「どうぞ」

わたしの差し出した紙袋をみて、ヤギさんは一度驚いたような顔をして、けれどすぐに頬を緩めた。優しげに目が細められている。

「あはは、またかい?」
「買いすぎちゃったので」

ふふふ、と笑うと、ヤギさんも楽しそうに笑う。

「いつも買いすぎちゃうね、君は」
「うーん、目の前に美味しそうなパンがあると、どうしても」

へらへら笑って、わたしはそう言ったけれど、ほんの少しだけ、嘘をついた。笑いながらもわたしはいつも、そうして今も、わたしは嘘をついているのだ。
パンを買いすぎてしまったのは、初めの一度だけ。お昼に買って偶然余っていたパンを、彼にお裾分けした。
その時に嬉しそうに目を細めたヤギさんの顔が忘れられずに、それからはいつも、ヤギさんの事を思い浮かべてパンを買う。仕事に行く前に、昼休憩に、職場の前のパン屋さんで。毎日毎日、自分が食べる分よりも一つだけ増やして。
そうしてヤギさんと会えた日には、何食わぬ顔で彼に手渡すのだ。……どうぞ。余っちゃったので、あげます。その言葉と一緒に。会えなかったら、次の日の自分の朝ご飯に食べるだけなので問題ない。
流石に毎回渡していたらバレてしまうかな、だなんて思っていたけれど、今のところ彼がその事実に気づく様子はなかった。ヤギさんはかなり鈍感だ。

「今日はクリームパンかあ」

袋の中を覗き込んで、ほくほく顔でヤギさんが笑う。前回はカツサンド、前々回はチョココロネ、その前はメロンパン。きちんと全部覚えている。なぜなら、ヤギさんには色んなパンを食べて欲しいからだ。だから被らないように毎回頭の中にインプットする。

「ありがとう」
「いえ、こちらこそ」

街頭がじじじ、と変な音をたてた。
そのまま、当たり障りのない話をしながら、わたしたちはアパートの階段を2人並んであがる。かつん、こつん。鈍い音が、響いている。わたしは少しだけゆっくりと足を進めた。一秒でも長く、ヤギさんと一緒に居たかった。ヤギさんも同じようにゆったりとした歩幅で歩いてくれていて、なんだか胸がじんじんとする。あと、3段。2段。1段。
2階に到着した。残念な気持ちを隠して、ヤギさんと向かい合う。
アパートの前からここまで、ほんの少しだけの距離だけど、わたしは並んで歩くこの時間がとても好きだ。

「じゃあ、戸締りちゃんとするんだよ」
「はい」

ヤギさんが、お父さんのような、お巡りさんのような、ヒーローのようなことを言うので、わたしはいつも少しだけ笑ってしまう。

「じゃあ、またね」
「はい。おやすみなさい」

ヤギさんがひらひらと手を振った。わたしも手を振り返す。ヤギさんはひとつ上の階なので、今度は一人で階段を上がって行った。ひょろりとした背中が離れていく。わたしはそれを見送って、ゆっくりと部屋の鍵を開ける。

勢いよくベッドに飛び込んで、傍のクッションを抱きしめた。そうしてわたしはヤギさんのことを考える。階段をあがっていく彼の丸まった背中が、瞼の裏に焼き付いている。クリームパン、食べてくれてるかな。
わたしはヤギさんが大きく口を開けて、クリームパンを頬張る姿を想像した。胸の奥の方がむずむずするような、もぞもぞするように感じる。綺麗に並んだ歯と口の端についたクリームを舐めとる赤い舌。
ヤギさんがご飯を食べる姿を見てみたかった。そういえば、彼はどんな食べ物が好きなのだろう。今度はなんのパンがいいのか、聞いてみようかな。ああ、でもそれだと、わたしがパンを準備していることに気づいてしまうかもしれない。
明日は何のパンを買おうかなあ。サンドイッチ、カレーパン、クロワッサン、あんぱん。他にもいっぱい。まだまだ彼に食べてもらいたいものが沢山あるのだ。

わたしは、ヤギさんのことをよく知らない。知っているのは、彼の名字がヤギだということと、ほんのちょっとネガティブ思考な時があること。それくらい。そういえば、ヤギという字は、どうやって書くのだろう。下の名前は、なんていうのかな。お仕事、何してるのかな。付き合っている人は、好きな人は、いるのかな。
わたしはヤギさんのことをよく知らないし、ヤギさんに明日も会えるかどうかは分からないけれど、それでもわたしは明日も同じようにパンを買うだろう。自分の分よりも、一つだけ多く。
ヤギさんが美味しそうに頬張る姿を思い浮かべながら。