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※監督生に弟がいる捏造有り



姉が帰って来た。一年前に突然姿を消した姉は、また突然に我が家に帰ってきた。玄関が突然開かれて、俺は恐る恐るリビングをそっと出た。そこから見えた姉の姿に転げるように駆け寄ると、姉は一年前と全く同じ姿でぼんやりと立っていたのだった。まるで信じられないものを見るように玄関をぐるりと見渡して、姉は俺に目を止めた。ぽろり、と姉の瞳から雫が溢れる。俺は震える手で姉の背中を摩った。なんと言っていいのか検討もつかなくて、俺は「今までどうしてたの」も「怪我はない?」も「無事でよかった」だって言えなくて、ただ姉の背を撫で続けた。
姉の顔を覗き込む。そこで俺はようやくはっとした。気づいてしまったのだ。その涙に映るのは安堵だけではなかった。寂しさとか、悲しさとか、どうしようもない感情がかき混ぜられて押し込められて、そうして溢れたものだった。

「……おかえり」

俺は、暫く経ったあとに恐る恐るそう声をかけた。この言葉で合っているのか自信が無い。姉はびくりと震えて、ゆっくりと俺の顔を見上げた。濡れた瞳が光っている。何かを堪えるように姉は顔を歪めた。ぐ、と喉が引き攣るような音がして、姉は震える手で俺を抱き寄せる。

「ただいま」

今にも叫び出しそうなほど、苦しそうな声だった。姉の腕に力が篭って、強く抱き込まれた。姉の心臓の音がして、俺は少しだけ安心した。まるで姉が違う世界のものになってしまったような感覚が、ゆっくりと溶けていくように、心臓は命を刻んでいる。
姉がもう一度「ただいま」と言った。
その言葉は何故か自分に言い聞かせるように聞こえた。



姉は、何も語らなかった。俺が「姉ちゃん帰ってきた」と電話をしたときの両親の取り乱しようは半端なものではなく、慌てて帰ってきた二人はぼろぼろと涙を溢れさせ、姉もまた泣いた。毎日探し続けた姉は、両親に「何があったのか」と聞かれたものの、何も答えなかった。何を聞いても姉は全て「覚えてない」「分からない」の一点張りで、警察で話を聞いてくれた女性も悲痛な面持ちだった。周りの大人は色々と勘ぐった。姉が誰かに攫われて、無理やり「嫌なこと」をされたのではないか。だから、姉は思い出すことが辛くてなにも語らないのだと。若しくは精神的なショックで忘れてしまったのだと。そう判断した。周りは姉に「思い出させない」ことを選んだ。辛いことは思い出さなくていい。

でも俺は「すごく幸せだったのだろうな」と思った。姉はきっと、俺達が知らない空白の一年間をとても大切にしていた。慈しんで、守って、生きる糧にすらしているように思えた。姉は忘れてなどいない。その記憶を消し去りたいとも考えていない。俺にはなんとなくわかったけれど、何も言わなかった。踏み込めなかったのかもしれない。姉は変わった、色々と。何だか前よりも積極的になったというか、思い切りが良くなったというか。それに前よりも大人になってしまったような、俺の手の届かないような遠くにいるように感じることがあった。
……ああ、それに。

「甘いもの、食べなくなったよな」

俺が感じていた違和感を思わず口に出すと、姉は少しだけ動きを止めて、俺を振り返った。姉は洗い物をしていて、俺は冷蔵庫のジュースを取るついでにケーキを手に取って、「食べる?」と姉に見せるように持ち上げた。姉は黙って首を横に振ると、洗い物を再開する。リビングには水の跳ねる音が響いている。
俺はテーブルにケーキを置いて、口に運んだ。 昨日誕生日だった父に買ってきた、チョコレートのホールケーキの余りだ。姉は昨日もケーキに手をつけずにいた。
姉が帰ってきてから、暫く経った。姉は帰ってきてから一度も甘いものを口にしていない。誕生日のケーキも、母が買ってきたプリンも、差し入れで貰ったシュークリームも。いつも「食べる?」と差し出すと首を横に振って少し申し訳なさそうにする。「ダイエット中なんだよね」とか「後で食べるから」と言っていたこともあるが、結局その口に入ることは無い。俺が両親がいない間に食べてしまうので、多分二人はこの変化に気づいてないのだろう。
姉は甘いものが好きだった。ケーキも、プリンもシュークリームも。誰かが買ってくればいの一番に食べていたし、時には俺の分をこっそり拝借していたのも知っている。俺が不満を零すと何食わぬ顔で「知らない」と言う姉の姿は、正直ムカついていたけど、でもそれが俺の姉だった。

「はい。紅茶」

洗い物を終えた姉が、俺の正面に腰掛けた。温かい紅茶が、俺の前に置かれる。姉も自分の前に紅茶のカップを置いて、頬杖をつきながら俺がケーキを頬張る姿を見ていた。

「……紅茶、淹れるの上手くなったよな」
「ほんと?」

一口飲むと、体の力がふっと抜けるような心地がする。俺の言葉に姉は嬉しそうに目を細めた。あまりに嬉しそうな顔をするものだから、俺は驚いて、もう一度「美味いよ」と言った。
ずっと、迷っていた。聞いていいのか、否か。あの一年を、俺の知らない空白を、掘り返すことが正しいのかどうか。分からないから、戸惑いも、違和感も、何も口に出さず過ごしてきた。それでもやはり俺は知りたくて仕方がない。紅茶の温もりが俺の手の力を抜いた。

「甘いもの、嫌いになったの?」

なんてことの無い、会話。その筈なのに、これ程に緊張するのはどうしてなのだろう。姉の変化を、違和感をこうしてはっきりと問いかけるのは初めての事だった。
姉は困ったような顔をした。……ああ、止めておいた方が良かったかもしれない。直ぐに後悔が胸にまとわりつく。

「嫌いになった訳じゃ、ないんだけどね、」

うーん、何て言うのかなあ。姉の間延びした声に、ほんの少し力が抜ける。
しかし、姉の顔を見て俺は背筋が栗立つのを感じた。姉は何かを懐かしむように、目を細めている。遠い遠い記憶を掘り起こすように、何かを手繰り寄せるように、目を細めているのだ。背中を撫でる、姉が遠くにいってしまうようなおかしな感覚は、姉が帰ってきたあの日にも感じていたものだった。

「……あのタルトの味を、忘れたくないの」

俺は、何も言えなかった。姉が儚くみえることにぞわりとした。姉はやっぱり忘れてなどいなかった。消え去りたいだなんて思っていなかった。姉にとってあの一年は何よりも大切で、何よりも重要なものなのだ。俺は酷く不安になったその気持ちを誤魔化すように、ケーキを口に押し込んだ。甘ったるい、ありがちなチョコレートケーキ。怖かった、目の前で瞳を揺らす姉が。姉はきっと、あの一年に戻るためならなんだってする。なんだって、してしまう。




俺はそれから躍起になって、毎日姉にケーキやらタルトを買って帰った。それでも姉は毎日首を横に振り、「ありがとう」と笑う癖に絶対に口に運ぶことは無い。近所のケーキ屋は網羅した。俺は他の街にも足を運び、ケーキを買って帰る。色とりどりのフルーツタルトも、白くて美しいショートケーキも、ほろ苦いティラミスも、綺麗な赤のイチゴのタルトも、姉は食べなかった。
俺は通販にも手を出して、色々な場所から取り寄せを始めた。旬の栗のタルトも、滑らかなチーズケーキも、少し大人な味のするガトーショコラも、姉は食べない。
毎日毎日飽きもせずケーキを買う俺に、ある日姉が「ごめんね」と眉を下げた。そんな風に謝るなら、俺は姉に毎日鏡に祈るように触れることを辞めて欲しかったし、俺が買ってきたケーキを食べて欲しかった。何処にだって行かずに、家族の元に居て欲しかった。

そうしてある日、帰った俺は、テーブルの上に置かれた箱に目をとめた。もしかしたら、俺が頼んだケーキが届いたのかも知れない。伝票は捨てられたのか、真白な箱だけがテーブルの上に置かれていた。ここ毎日俺が頼んだケーキが届くので、両親も呆れたような顔をするだけだ。「最近好きね、ケーキ。太るわよ」という母に苦々しい気持ちになる。姉がケーキを食べてくれさえすれば、俺はこんなに苦しい気持ちになりはしないのに。
箱を開けると、まるで宝石のような苺のタルトがきっちりと収められていた。美味しそうな香りがする。

「……頼んだの、苺のタルトだったっけ?」

ふと過ぎった違和感は、しかしすぐに霧散した。なにしろ毎日毎日ケーキを買っているからか、いつ何が届くかなんて最早把握できていない。それにしても、こんなに美味しそうなタルトなら、姉も食べるかもしれない。甘い香りに誘われて、きっと。



帰ってきた姉に真っ白な箱を見せると、「もういいのに」とまた姉は困った顔をした。いつものそれは見えないふりをして、姉をテーブルの前に座らせる。箱を開くと、きらきらとした苺のタルト。立ち込める美味しそうな香り。
姉はぽかんと口を開けてタルトを見つめている。

「これ、すっげー美味しそうでしょ?」

姉が今まで見せたことがなかったような反応に嬉しくなって、得意な気持ちになる。本当に、これだったら食べてくれるかもしれない。姉がごくりと唾を飲んだ。

「…これ、どうしたの?」
「今日届いたみたい。……食べる?」

俺は震える声で問いかけた。毎日毎日、問いかけた言葉。
姉がこくり、と頷いた。「うん、食べる」と姉が頬を緩める。俺は舞い上がった。姉がやっと甘いものを口にする。やっと、帰ってきてくれる。あの一年に縋り付くのを辞めてくれる筈だと俺は疑わない。俺は嬉々としてタルトを切り分けた。姉が紅茶を淹れる。切り分けたタルトは依然美味しそうに光り輝いていた。
俺は、姉がタルトを口に運ぶ瞬間をじっと見つめていた。
姉の口の中にタルトが運ばれていく。ぱくり、とそれを一口食べて、咀嚼している姉の顔が緩んでいくのを眺めていた。嬉しくて、堪らない。

「……美味しい」

姉が幸せそうに目を細め、瞳からは涙が零れた。……涙?

「……姉、ちゃん?」
「やっぱり、美味しい」

姉がもう一口タルトを食べた。ぽろぽろと涙が次から次へと溢れていく。頬を伝うそれが、光を反射してきらきらと光っている。
俺はとても嫌な予感がして、姉からタルトを取り上げようとした。……でも、出来なかった。余りにも姉が報われたような顔をするからだ。いっそ恍惚なほどのその顔は、やっと会えた恋人に向けるようなそれだった。
姉を繋ぎ止めるためのケーキ。それが、俺と、俺たちと姉とを決定的に切り離してしまったことを悟る。
行かないでくれよ、と言いたかった。それが最早無駄なことだろうと分かりきっているのに。俺が泣いて縋ったら、姉はここにずっと居てくれるだろうか。姉は優しい。でも例えここに残ってくれたとしても、一生あの困ったような、酷く寂しそうな顔でここに居るのだろうか。
姉の手元には、いつの間にか綺麗なカードが握られている。美しい字で「あと少しだけ待っていてくれ」と書かれたそれを、姉は震える手で持っていた。
インターホンが鳴った。きっと俺の頼んだケーキが届いたのだろう。
俺は何も言えずに、姉の幸せそうな顔を見つめていた。




幸せにしているだろうか、と時々考える。姉はあれからきっかり2年後、忽然と姿を消した。消したと言っても、海外に行ったことになっている。少なくとも、両親はそう思っていた。年に一度どこからか届く手紙には、いつも俺を心配するような文言が書き綴られている。酷い姉だ、と思う。そんなことを言うなら、俺らの傍に居てくれればいいのに。
姉はとても遠くに行った。実は両親もきっと、気づいているのかもしれない。姉はもう俺たちの前に姿を現すことはないのだろう。
幸せにならないと、許さないからな。と独りごちる。姉はとても遠くへ行った。それがどんな場所で、姉が大切だと思える人がいるのか、俺には分からない。……いや、少なくとも一人はいるだろう。タルトで俺の姉を縛り付けた、きっと、とんでもなく料理上手な人が。