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「わたし、結婚する」

秋が深まり始めた寒い日のことだ。
朝方なんかは吐く息が白かったけれど、確か女が尋ねてきたのは昼過ぎのことで、まだ肌に触れる冷えた空気に耐えうることができる半端な寒さだった。一歩冬に移り変わるごとにからからと鳴る枯れ葉がなんだか笑い声のように聞こえる。
今週分の原稿が終わり、珈琲片手に一息ついていたぼくは鳴り響いたインターフォンに辟易してカップを置いた。ドアの外を確認して、仕方なく、仕方なく中に招いてやったぼくに向き直り、いつだって生意気なこの女は開口一番そう言った。
唐突に訪れて入ってきた女に嫌味の一つでも浴びせてやろうと考えていたのに、瞳には少しの表情すら映っておらず、調子が狂う。

「…お前みたいな猿と結婚するやつなんかいるのか?」
「うん、お見合いするの」
「お見合い」

静けさを落としたような瞳の中にはなんの感情も浮かんでいない。こちらを見つめているそこには、情けなく戸惑う顔のぼくがいるだけで、他の何も映されてはいない。いつもなら子供のようにころころと表情が変わるこの女にしては、とても珍しく奇妙なことだ。
女はやはりどこか淡々としている。何かを待ち望んでいるようで、何も近づいては欲しくないような、どちらだかも分かりやしない曖昧な空気を纏って立っている。
馬鹿みたいに女の言葉を復唱していたぼくに痺れを切らしたのか、女はぼくからふいと目を背け、どかどかと遠慮無しに家の中へ進んでいった。

「紅茶、淹れてよ」

最後かもしれないし、だなんて無感情に付け足しながら、やっと今日初めて微笑んだ女は、まるで今までとは全く違う人間に生まれ変わってしまったようだ。その大人びた表情は胃が掻き回されるみたいに酷く気分が悪い。もっとこの女は馬鹿みたいに笑うやつなのに。

「…相変わらず図々しい奴だな」

やっとのことで声帯から絞り出した音は、何故だろうか、酷く頼りなく聞こえる。動揺しているように聞こえなくもない声だ。この岸辺露伴が。
震えた声が出ていることに自分でも驚いて、その情けなさを誤魔化すようにぼくは黙ってお湯を沸かし始めた。
ソファの背もたれにだらしなく体重を預けてぼんやりと天井を眺めている女は、この家に入った時と変わらず何を考えているか分からない。だらりと力の抜けきった腕は酷く重そうで、そのままずぶずぶとソファに沈んでいきそうだ。
女が、口を開く。

「お金持ちなんだって」
「…ふうん」

女は天井の端から端をなぞるように目線を彷徨わせている。
丁寧に、繊細に、緩やかに。

「お父さんの仕事先の、お偉いさんの息子らしくて」

こちらへ聞かせているというよりは、自分の中で整理しているような風にも聞こえる。
ぽつりぽつりと呟くようで、はっきりしているような。

「……玉の輿だあ」

自分の中にその言葉を無理やりに浸透させようとするように、女は目を閉じた。長いまつ毛が震えて、影を作っている。まるで鳥の羽が寒さに凍えているようだった。
今にも空気に溶けて消えてしまいそうな女になんと声をかければいいのかも分からず、ぼくは暫く固まっていた。

「良かったな、嫁の貰い手が出来て」

ーー後にも先にもこんな話、これだけだろうな。
やっと吐き出すようにそう言って、ぼくは女にまた背を向けた。
水はまだヤカンの中で足踏みをしていて、いつまで経ってもお湯になる決心を付けないでいる。こんなにもお湯を沸かすのに時間がかかっただろうか、そんな風に考えてもきっと実際のところは時計の針は大して進んでいないのだ。
女が立ち上がる気配がした。

「…わたしも、そう思う」

無理やりに絞り出した、泣き出しそうな声。
けれどぼくは振り向くことが出来ずにただ水があぶくを出し始めたのを睨みつける。
きゅうう、と間抜けで痛い音が響いた。
白い煙が吹き出して視界を染めた。ぼくは深く息を吸う。ゆっくりと振り返るともう女はそこにはいなかった。





▽▽▽▽▽


「なまえさん、結婚するんですか?」

どきり、というか、ぎくりとした。
スケッチブックと鉛筆片手にその辺をぶらついていたところ、大親友である康一くんとばったり会ったのはほんの十数分前のことだ。
彼はぼくを見つけた途端急にそわそわとし始めて、珍しくもお茶に誘ってきたのだった。もちろん二つ返事で了承した。断る理由もなかったし、そしてぼくらは親友だからだ。
しかし質問と言うにはハッキリとしすぎている康一くんのその言葉で「やっぱり断れば良かったかもしれない」なんて気持ちになってきてしまった。

「ああ、そうらしいな」

なんてことない風に答えてやる。
しかしぼくは珈琲を飲むために口元に持っていったカップを、あろうことか全く口付けることなくいつの間にかソーサーへ戻していた。
カチャリと鳴ったそれに気づいたらなんだか気まずくなってしまって、誤魔化すように瞳を窓の外へ逸らす。

「そうらしいな…って…」

康一くんの眉間に深い皺が寄った。
カチンときているぞという顔だ。
康一くんは意外と感情が表に出やすい。その温厚さと勇敢さ故なのだろうか。

「僕には関係ないね」

頬杖をつきながらそう言い切ってやった。
それもそうだ。
そもそもぼくにはあの女が結婚するだしないだなんて全く関係のないことだ。付き合っている訳でもなければいまのいままでそんな関係だったことも一度も無い。
確かに腐れ縁のような奇妙なものはあるものの、だからと言ってそんなことは関係ないのだ。どうしてそんな事でぼくが非難めいた視線を向けられているんだ。
そんなことを考えているとなんだか苛ついてきてしまって、いつの間にかぼくの指は小刻みにテーブルを叩いていた。

「……はあ、」
「…なんだよ」

康一くんが、酷く面倒そうな瞳をぼくに向けた。
「こんなことも言わなくちゃあ分からないのかこの人は」と呟くように言って、テーブル越しだが、少しこちらに身を乗り出した。
とても真剣な顔をしている。

「なまえさんが、顔も知らない他人のものになっちゃうんですよ?」
「…そりゃあ、結婚するんだからな」
「その人の為に、毎日料理作って洗濯して掃除して、家でその人の帰りを待つんですよ?」
「そりゃあ妻なんだからな」

至極当たり前のことを、康一くんは言い聞かせるように言う。

「もうなまえさん、きっと露伴先生の家には来ませんよ」
「…何?」

身体が無意識にぴくりと震えた。
予想外の言葉が康一君の唇から発せられたからだ。しかし、それはどうしようもなく真実だった。

「当たり前じゃあないですか。結婚するんですから。いくらやましい事がなくたって、夫じゃない男の家になんて行きませんよ」
「…………」

やれやれ困ったなあ、という風に康一君は首を傾けてみせた。

「…考えてもみなかった、て顔ですねえ」

図星だ。あの女が他人のものになるということは、ぼくの元にもう現れないことだということなんて、ぼくは考えていなかった。考えたくなかったのか、思いつきようもなかったのかなんて、もはや分からない。
そうしてぼくはやっと落ち着いてゆっくり考え始めたのだ、なまえが他の男と結婚した未来について。

あの女はぼくの家にもう来ない。前までは好き勝手に現れて、お菓子やらケーキやらを我が物顔で頬張っていたというのに。それどころかこれからはその旦那の為にお菓子やらケーキやらを買ってきて、一緒に並んで食べさせあいっこなんてしたりする。
毎日旦那の帰りを待って、掃除や洗濯や料理にあくせくしながら取り組むのだ。そうして仕事から帰った旦那にハグをして、おかえりのキスなんかしたりするのだろうか。
それに…多分、ぼくを見ても、他人行儀に挨拶するだろう。そんな気がする。まるで少しだけ顔見知りの漫画家さんって感じで、軽く会釈して、通り過ぎてゆくのだ。
そんなことを考えているとなんだかとても苛立って、手に力がこもる。

「ろ、露伴先生…顔怖いですよ」
「…康一君」

ぼくが呼びかけると、康一君は「な、なんでしょう」と震える声で応えた。怯えている。
そんなに酷い顔をしているのだろうか、ぼくは。
俯いていると、ある考えがぼくの頭をよぎる。

「あの時…あの日に、書いておけば良かった」
「は、い?」

小さく声が零れた。戸惑ったように康一くんがこちらを伺っている。もしかしたら、ずっと考えていたことなのかもしれない。それが、急に奥の方から押し寄せて、後悔となって口から溢れ出た。

ああ、そうだ、書いておけば良かった、あの日に。
ーー見合いの話は断って、これまで通りに過ごす。
そう、あの女に書いていれば良かった。
ぼくにはそれが出来るのだから。
は、と康一くんが呆けたようにこちらを見つめている。意味を数秒咀嚼して、康一くんは目を見開いた。

「へ、ヘブンズ・ドアーを使おうとしてるんですか!?」
「そうだよ、それしかないだろ!!」

康一君が悲鳴をあげた。信じられない、と叫んで、身を乗り出してぼくの肩を掴む。

「もしヘブンズ・ドアーを使うつもりなら、僕がエコーズで先生を止めますからね!!」

必死の形相で康一君はそういった後、また困ったように「なんでそうなるかなあ…」と泣きそうに顔を歪めた。
そんな泣きそうな顔をされたって、ぼくにはもうどうしようもないのだ。どうすることもできないのだ。だってもうあの女は、もう。

「なまえさん、明日が顔合わせみたいですよ」
「明日…」

康一君は、「いいですか」と念を押すようにこちらを見遣る。

「絶対に、ヘブンズ・ドアーを使っちゃあ駄目です」
「……」
「駄目ですよッ!!」

ガタンッと音を立てて机が揺れた。カップの中で不安定に波がたつ。康一くんはこちらを睨みつけ、もう一度「ヘブンズ・ドアーは使わないでください」と言った。

「ちゃんと二人で話してください。…そうすれば大丈夫ですから」
「嫌に自信満々だな」
「…きっと大丈夫ですから」

先程までとは打って変わって、とても優しい顔で康一くんは笑っている。

「だから、そんなに不安そうな顔しないでくださいよ」
「…不安?」

そんなにも不安そうな顔をしているのだろうか、ぼくは。







△△△

インターホンを押すまでに、20分もかかった。
ドアの前で何回も深呼吸をしていたら、通りがかった男が訝しげにこちらをみやったので、やっと目の前のボタンを震える指先で押したのだ。
開いたドアの隙間からこちらを確認したなまえは、一瞬驚いたように目を見開いた。

「…なに?」
「話をしに来た」

真っ直ぐに見つめると、瞳が少し揺れる。ドアを支える指は弱々しく震えていて、やはりこの女らしくない。

「…どうぞ」

ドアを開けると、石鹸の香りがした。
なまえは風呂上がりのままなのか、髪が濡れている。柔らかな素材で出来た縞模様のパジャマは確か1年ほど前に、一緒にデパートに行った時買っていたものだ。可愛いでしょ、と見せびらかしてきたので覚えている。
この寝間着を、どこの誰とも分からないやつが見て、あまつさえ触れるのだろうか。

「露伴?」

中途半端に立ち止まったぼくに、不安げに呼びかける。こちらを見上げる瞳はずっと揺れたままで、今にも溢れそうなものを堪えているかのようにもみえる。
ああ、でもそれも、全部ぼくの妄想なのかもしれない。
思考が回り始めてしまって黙るぼくを椅子に座らせて、なまえは温かい紅茶をコトリと置いた。

「今珈琲切らしてるから…これでもいい?」
「ああ」

机を前に向かい合いながら、沈黙が続く。
どう切り出せば、何を言えばいいかも分からずに、ただ時間だけが過ぎていく。
紅茶から立ち上る湯気だけがゆらゆらと揺れて、ぼくらの気まずさを解消しようと奮闘しているようだ。

「…話って?」
「……」

静かな空気を止めようとしたのか、切り出してきたのは向こうだった。
未だ何も言わないぼくに、気まずいのかカップを指でなぞっている。

「…明日なの、お見合い」
「……」
「なんか、時代錯誤だよね、うん」

黙りこくっているぼくに、へら、と締まりのない顔でなまえが笑う。ぼくはその顔にどうしようもないくらいに苛立っていた。
そんな顔、お前には似合わない。

「上手くいくわけないだろ、見合いなんて」
「はは、そうかもね」

あまりに鋭い声がでた。
なまえは困ったように笑っている。
ああまただ、またその顔。痛みを無理やりに誤魔化したみたいな、そんな顔で。悲しくて堪らないのに、押さえ込んだ、そんな、顔で。
また沈黙が続く。
時計の音が部屋に響いている。

「…話は、それだけ?」

目を伏せた後苦々しく笑って、なまえは首を傾けた。
明日、早いからさ。寝なきゃ。
そう言うと、自分の紅茶を飲みきって、なまえが立ち上がる。

「もう、悪いんだけど、帰って」

そのまま玄関へと足を踏み出した。

「ぼくは、岸辺露伴だ」
「……? うん、そう、だね?」

なまえが中途半端に立ち止まった。
ぼくの突然の言葉に呆けた様な顔でなまえは頷いてみせた。
足の上で握りしめた手が、震える。

「一人で暮らしていくにも充分すぎるくらいに金があるし」
「一戸建ての家を持ってるし」
「生活は安定してる」

カップを持ったままその場で訝しげな顔をしたなまえに近づく。手の震えはまだ収まらなくて、けれどそのまま、ぼくはなまえの顔に触れた。濡れて額に張り付いていた髪の毛をどかしてやる。

「それに、顔も申し分ないだろ」

喉が張り付いたみたいだった。声は情けなく震えていたし、何故だか鼻がツンとしてくるほどだ。

「…え、で、なに?」

戸惑いながらこちらを見上げるなまえも、なんだか震えているように見えるのは、気の所為なのだろうか。

ああ、好きだ。
この女が、ぼくはどうしようもないくらいに好きなのだ。

はっきりとそう自分の中で言葉にすると、もう駄目だった。この女にそばにいて欲しい、なんて女々しい欲求が溢れて止まらなくなる。
ぼくはなまえを無理やりに引き寄せた。
もっと力がいると思ったのに、なまえは案外されるがままに、ぼくの腕の中に収まっている。
深呼吸してみたけれど、逆に心臓が苦しくなって、ぼくは少し腕に力を込めた。

「お見合いなんてやめて、一緒になってくれ、」

視界が霞む。
ぼくは情けなくも泣いていた。
瞳から零れた涙がなまえの頬に落ちていった。
けれど、ぼくの情けない涙を上書きするかのように、なまえの瞳からも大粒の涙が溢れている。

「馬鹿なんじゃ、ないの…」
「ああ、馬鹿だ、ぼくは」

抱きしめる腕に力を込めると、震える弱々しい手が、ぼくの背中を縋るようにつかんでいた。

「遅いよ、馬鹿、」

ぼくの胸に顔を寄せて、安心したようになまえが微笑む。
ーーああ、そうだ。
ぼくは君のその顔が好きなんだよ。