言葉は要らないと思っていた。飾り立てた言葉なんて一つもくれなくたっていいから、ただ、そこに居て欲しかった。私の手の届かないところでいいけれど、それでも目の届くところにはせめて、居て欲しかったのだ。 彼は優しい人だ。ヒトの為に行動できる人だ。手を差し伸べる人だ。地に膝をついてくれる人だ。自分の信じることを全うできる人だ。 彼と言葉を交わすたびに、どこか安心して、それ以上に背筋を幸福が駆けた。瞳を合わせると、ただじんわりと、このひとが好きだと、そう感じた。
「…………」
嫌な心地のする予感めいたものが、ずっとまとわりついていた。 玄関先のタイルはゾッとするほど冷たく、私の足から温度を奪い去っていく。震える身体の奥で、ずっと覚えていた不安が破裂して飛び散っていた。壁に頭を預けると、鈍い音が鳴り、ひやりとした感触が頬に触れる。そういえば。そういえば、彼の掌も、こんなふうに冷たかった。 指先がぶるぶると震えている。唇から細い息が漏れるのを抑え込もうと、膝を抱え込んで顔をうずめた。
手紙を持って来たのは、二人組の、派手な身なりをした男だった。仕事を終えて、店を出て暫く歩いたところで、彼らが声をかけてきた。人通りがあって明るい道であったことに、どこか配慮めいたものを、今では感じる。 男のどちらとも面識はないのに、殆ど断言するような響きを伴って呼ばれた自分の名前に、私はどうしても嫌な心地がしたのだ。けれど、私は足を止めた。この二人が、私を傷つけることはないという確かな確信があったからだ。その瞳が、どこか彼に似ているからでもあった。
「ブローノ・ブチャラティからです」
男達が誰であるのかなど分からなかった。分からなくとも、彼らが誰の名を告げるのかだけは、うっすらと、心の奥底で理解していた。 ブロンドの髪をまとめた男が、私に手紙を差し出した。手紙と言えるほどに大層なものでもない。小さな薄い封筒一枚だ。 二人とも、それ以上何も言わなかった。ただ、私の手の中に紙が渡ったのだと、それだけを確認するとそのまま姿を消した。
言葉は要らなかった。要らないから、ただ傍に居てくれればいいと、本当に奥底からそう思っていたのだ。優しい人だ。街の人間にだってよく慕われていて、唯の花屋の店員であった私にさえ、親しげに声をかけた。
「君には花が似合う」
店先に置かれた花にちらりと目を向けて、そうしてその瞳を私へ移した後、なんてことのないふうに、彼は言った。いつも彼は店に顔を出すたび、毎回律義に花を買ってくれた。
「大切な方へのプレゼントですか?」
そう、聞いてみたことがある。私の言葉に僅かに驚いたように表情を動かした彼は「誰かに渡したことはないな」と言ったのだ。意外だった。こんな美しい男が花を買う理由なんて、それくらいだろうなんて考えていたから。けれど私は、驚く以上に確かに安心していた。 その時酷く、唇が渇いていたことを、よく覚えている。
「けれど、……毎週来てくださいますよね?」 「ああ、花屋に来て花を買わないなんて勿体無いだろう?」
実は全部俺の部屋に飾ってる。……意外か? 悪戯っぽく笑んだ彼が、焼き付いているのだ。その瞳や仕草が、胸の底に巣食っている。
「そうだな、あー、……今日からは君に花を送ってもいいか?」
今買ったばかりの花。私が一番、好きな花。 それからは、毎回花を買うたび、私の手に持たせて「やはり似合うな」と言った。その時間が、私にとってどれだけ幸福だったか。 優しい人だ。
だから、熱の籠った瞳で見ることがあっても、私に一歩さえ踏み出させることが無かった。私が伝えようとした言葉を優しい瞳で遮って、気付かないふりをした。 友人とも他人とも言えない。距離感なんて、疾うに分からない。もしかすれば、愛している、なんていうのは私だけかもしれない。歩数は縮まらないのだ。 分かっている。それが彼の優しさだ。彼が何者なのかも、分かっている。全ては彼の優しさで、何の力もない私を巻き込まないでいてくれただけだ。分かっている。
「……分かってる、」
だけど。 だけど、私は巻き込んで欲しかったのだ。例え訳の分からない最期になったとしても、一度だっていいから彼の隣に立ってみたかった。まるで普通の恋人のように、お気に入りのリストランテで食事をして、ドライブをして、映画を観る。そんなことでいい。一度だけでいいから、そんな風に過ごしてみたかった。 彼が私と彼に、一つ、絶対に越えられない線を引くたびに惨めだった。 指先に、ざらり、とした感触があった。 彼が、書いた手紙だ。
「手紙、なんて」
毎回花はくれるのに、手紙も、愛の言葉も終ぞ言ってくれなかった。唇が震える。 なんて書いてあるのだろう。 その紙の中にしたためられた文字が全く想像できない。馬鹿な私は、愛してるの一言でも書いてあるだろうかと夢想して、冷静な私が馬鹿な事を考えるなと一蹴する。 愛の言葉が書かれていたら。一言でも、何かが残されていたら、私は。 震える手で、手紙の封を切る。
「…………ああ、」
震える声が、落ちた。心臓が冷え切って、息が、引きつったように浅くなっていく。
幸せに。
たった、一言。 それだけ書かれたカードが、封筒から床へ滑り落ちた。
「…………やさしいのね」
貴方の隣が一番幸せに決まっている。それなのに、こんな言葉でお別れをしようだなんて、本当に最低だ。最低なくらいに、優しいひとだ。
「一緒に連れて行ってくれれば良いのに」
そんなことはあり得ない。 ブローノ・ブチャラティは、私の前に一生現れない。どこで死んだのか、いつ死んだのか、それともどこかへ行ったのか、それすら分からないけれど、もう私が彼に会うことが無いことだけは確かだった。 手紙を握りしめて顔を上げると、テーブルの上に置かれた花が目に入る。彼が最後に買った花。 花は彼の瞳の色の花瓶の中で、まだ美しく咲いていた。
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