「お前さあ、楽しい?」
ぽた、と垂れる水滴が、地面へ浸み込んでいく。口元を拭って振り返れば、桑田が酷く怪訝そうにこちらを覗き込んでいた。刈り上げられた頭には、汗の一滴も滲んでいない。
「何が」
苛立ちが混じった声に、この男は気づいただろうか。 すぐ先のグラウンドから、運動部の掛け声が響いてくる。きっとその中には桑田の所属する野球部のものも混じっているのだろう。練習しなくていいの、なんて、そんな言葉はもう言わなくなった。きっと、誰もそんな言葉を彼にはかけない。
「何って、練習」 「…………楽しいよ」
嘘だった。本当は辛くて苦しくて、今にも逃げ出してしまいたかった。いくらやってもできないテンポの速い楽章も、先輩の怒号も、指揮者のため息も、全て嫌だった。けれどわたしにはこれしかないから。これが無くなったら、もうなんにも無くなってしまうから。辛いと、そう口に出してしまったら、わたしはもう戻れないと思った。
「ふうん……」
桑田はそんなわたしの本音を見透かしているのかいないのか、つまらなそうに声を漏らすだけだ。
「でも、お前、スタメン入れなかったんだろ」
ぴたりと、かちりと、ぐしゃり、と。よくわからない音を立てて、わたしの心臓が固まり、握りつぶされる。……桑田の言う通りだった。わたしは次の大会のメンバーに入れなかった。めきめき上達していく後輩には追い抜かれ、もうわたしの席は無い。わたしの居場所は無い。
「……だから、練習してる」 「へえ、」
無遠慮に、野蛮に、なんの躊躇いも無く踏み込んでくるくせに、返事はどこまでも淡白だった。
「次は絶対、」 「いや、努力しても無駄だって」
ひゅう、と、喉の奥で音が鳴った。これ以上耳を傾けたくない。早く練習に戻らなくちゃ。早く。 背を向けて教室へ向けて歩き出したわたしの手を、桑田が掴んだ。ぞっとするくらいに熱い掌が、わたしの手首を掴んでいる。
「向いてないよ、お前にはさ」
振り向きたくない。それなのに桑田はゆっくりとわたしの顔を覗き込んで、そうして笑った。
「理解できねーわ、お前ら」
すぐに、お前ら、が一体誰を指すのか、わたしには分かってしまった。それはわたしだけでなくて、きっと彼のチームメイトも含まれて……いいや、チームメイトだけではない、彼の野球人生に関わってきた人間すべてが、含まれているのだろう。彼の前に敗れた全ての人間が。天性の才能だ、と誰かが言っていた。目の前で嘲るように笑う桑田にとって、本当に、練習も、努力も、意味が無いことなのだ。どれだけ努力しても、才能の前では無力だ。 手を振りほどこうとすると、痛いくらいに抑え込まれた。「いやだ」と情けないくらいに細い声が唇から零れた。
「練習に、戻らせて」 「…………」
やっと絞り出した声に、返事は無かった。代わりに、酷く冷たい瞳がこちらを見下ろしている。その奥にどんな感情があるのか、わたしには分からない。彼が見ている景色なんて、わたしには、とても。その瞳に耐えられずに、わたしは俯く。
「あっそ」
色を失った声が廊下に嫌なくらいに響き、桑田が、ぱっと手を離した。恐る恐る顔をあげると、降参するように手を挙げて、ひらりと振ってみせた。へらへらと締まりのない顔で笑っている。
「悪りィな。ほら、戻れよ、練習」 「…………うん」
心臓が冷えていた。逃げるように、桑田に背を向ける。個人練習をしていた教室に、足早に戻った。教室の扉を閉めると、浅い息が漏れて、身体が震えた。瞳の中には、未だに桑田の嘲るような顔が残っていた。耳には笑い声が響いていた。消えろ、と願っても、むしろ纏わりつくように残っている。 グラウンドからは未だに野球部の彼らの掛け声とバットの音が絶え間なく聞こえていた。
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