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 人の身を得てから、覚えるようになったこの言い知れぬ感覚が、どうしても嫌いだった。胸部の奥。腹の底。ぐるりと、蛇が這うような、焦げ付くような、それ。
 耐えきれずに、爪の先で引っ掻く。かり、かり、かり。がり、がり。ああ、この底からぞっとする原因を、どうにか取り除きたい。漏れそうになる悪態を歯の奥でみ潰し、ひたすらに、嫌悪感を消し去ろうとする。気持ちが悪い。
 はた、と。気づけば、掻いていた場所から血が滲み、指先を汚していた。強く掻きすぎたらしい。鉄の匂いがする。血液は鉄と同じ匂いがするのだということも、人の身を持って初めて知った。香りなど、気にしたことが無かったから。

「……御手杵?」

 あ。口から間抜けな声が漏れた。
 いつの間にか襖をあけて主が立っている。「声、かけたんだけど、」こたえなかったから。そう言いかけて、主の瞳が振り返った俺の指先をとらえた。口が中途半端に開かれて、は、と息が落ちる。目が大きく開かれて、その奥がゆらゆらと揺れている。

「血、……血がでてる」

 暫く固まっていた主が、はっとして部屋の中に入ってくる。慌てた様子で俺の横に座り込み手を取った。ああ、駄目だ。またあの感覚がする。触られた部分が、熱くて堪らない。腹の底に言い知れぬ感覚。
 耐えきれなくなって、半ば無理やり手を解いた。主が戸惑ったように、俺の名前を呼んでいる。

「待って、胸から血が出てる。いつ怪我したの、昨日の出陣?」

 戸惑いよりも、審神者としての責任感が勝ったのだろうか。主は俺の胸に滲む血液に顔を歪めて、真っすぐに俺に問いてくる。怪我を隠していたのか、そう疑われていることに気が付いた。主は刀剣が傷を隠すことを嫌う。

「答えて、御手杵」

 ああ、名前を呼ばないでくれ。そう思う。アンタに名前を呼ばれると、おかしいのだ。胸の奥が酷くざわついて仕方が無い。こんなのが人の身の常だって言うのか。そんな訳が無い。きっと俺は何かのビョウキに罹ってしまったのだろう。だからこんなにも、可笑しな感覚が離れない。

「……おかしいんだ。ここが、」

 主が俺の指先へ視線を移す。「心臓?」主がまた不安そうな顔をする。俺は首を振った。もっと奥だ。どんなにきむしっても届かないほどに奥。それこそ、きっと俺で刺さなくては届かないくらいの、奥。

「奥が、変なんだよ」

 人の身は不便だ。言葉も。繰り返しても伝わっている気がしなくてもどかしい。
 主は落ち着かせるように静かな声で「まずは、手入れ部屋に行って、その後薬研に見てもらおう。大丈夫」と言って俺の背を撫でようとした。しかし撫でようとしたが止まる。少し考え込んで、触ってもいい?そうゆっくりと主が顔を覗き込んだ。俺が力なく首を横に振って見せると、主がほんの少しだけ傷ついた顔をする。それを見ていると、俺まで同じような顔になってしまった。アンタが嫌いな訳じゃない、本当だ。ただ、この身体が変なんだ。何かに侵されたこの身体が、変なんだ。おかしいのは俺なんだよ。

「行こう、御手杵」

 促されるようにして、俺はよろよろと立ち上がった。気遣わし気に、主が俺を見ている。その瞳が、俺の心臓をダメにする。どうしてだろうか。
 触れられるのが、嫌な訳では無い。それどころか、永久に触れていて欲しいと思う自分すら居る。でもこの心臓の違和感は恐ろしい。そう、恐ろしいのだ。自分が、どうしようもないまま塗り替えられてしまうような、この感覚が。

「あるじ、」

 情けない声に、主が困ったように笑う。

「大丈夫、すぐに治るから」
「……ごめんなあ」

 こんな槍に、どうしてそんなにも優しい顔ができるのだろう。どうしてそんなに、穏やかな声で、大丈夫だと言えるのだろう。ああ、苦しい、気持ちが悪い。
 心臓を、自らえぐり取れば、この原因がつかめるだろうか。その思考にたどり着くのは、いつものことだった。でもそんなことをすれば、きっと主が怒るだろうから。それ以上に、きっと泣くだろうから。だからしない、できないんだ。