第九章 門井ネリネ・下


 今にもぜんまいが切れて止まってしまいそうな速度で話す老婆を急かして、どうにか聞き出した話は、何もかも身に覚えのない出来事だった。記憶をなくして倒れるほど飲んだ? そんなわけがあるか。料理を注文した? それにしては、腹の底が抜けそうな空腹具合だ。そもそも、坂下に来た? そんなはずがない。だって昨日は――
「ネリネ! ……っ、く」
「ああ、ほら。慌ててお立ちになっちゃ。まだ頭が痛いんでしょう」
「違う、これは何者かにやられて」
「お可哀想に、戦場の夢でもご覧になったんでしょうねえ。座って、お水をほら。何があったか存じ上げませんが、昨夜のことは、わたし共も楽しい時間でしたから、どうも思っちゃいませんよ」
「違う、そんなことを言っているんじゃない。俺は本当に……っ」
 振り払った橘の手が、老婆の差し出した水を弾き飛ばした。ああ、と深い皺の奥の、糸のような目を見開いて、老婆が慌てて拭くものを探し、割烹着のあちこちを叩く。
 その姿は、本当に、ただの年老いた小料理屋の女だった。
 橘は頭の芯がすうっと冷静になっていくのを感じて、胸のポケットに手をやり、ハンカチを取り出して畳を拭った。
「将校さん?」
「……貴方に怒鳴っても仕方ないんだな。失礼した」
 老婆がはあ、と急に態度を変えた橘を怪訝そうに眺める。濡れたハンカチを畳んで、転がったグラスを拾い上げて、
「どうやら昨夜の記憶が、ひどく曖昧なんだ。酒を飲んだからではなく、ここに来る前から。……覚えていることを、簡潔に話してもらえないか」
 できる限り落ち着いた口調で、再度説明を求めた。

 老婆の話は、にわかには信じられないものだった。昨夜、日付の変わる頃、坂下に立ち寄った橘は、彼女の経営する小料理屋に入って食事を注文。常連の男たちと酒を酌み交わして、ひどく上機嫌で羽振りが良かったという。
 老婆は主に坂下に住む、軍に勤める者の家族――つまり、女給の親や看護婦の兄弟など――を相手にした商売を、細々と行ってきた。訪れる客のほとんどは年配の男たちで、現役の将校に出すようなものなど、と内心動転したが、橘があまりに気さくで偉ぶらないもので、そんな躊躇はすぐに忘れて自慢の料理をいくつも提供したという。
 橘は彼女や他の客を相手に、何かの宴だとでもいうような潔さで飲んで騒いで、深夜、店を後にした。だがその直後、店から数十メートルの路上で倒れているのを発見され、ちょっとした騒ぎになった。
 老婆は、楽しくしているようだからといって飲ませすぎた自分にも責任があると思い、坂下の男たちに頼んで名も知らぬ将校を運んでもらった。そうしてもう一度、自分の料理屋兼自宅に連れ戻し、ここ数年使われていなかった客間に布団を敷いて、橘を寝かせたというわけだ。
(何が、どうなってる?)
 頭の奥がぐらぐらする。水溜りに倒れて汚れていたからと老婆が洗っておいてくれた外套を受け取り、まだ乾いていないそれを腕に抱えたまま、橘は愕然として店を出た。何一つ、自分の記憶と照合しない。念のために日付も訊いてみたが、やはり一晩の出来事なのだ。
 自分が、あの川辺で何者かに襲われたのも。
 この坂下で、馬鹿のように飲んで騒いだのも。
「おお、将校さん! 昨夜はご馳走様でした」
「おかげさまで楽しい晩酌でしたよ。またいつでも来てくださいよ、なんつって」
 記憶にあるのは、前者だけだ。だが後者を証明する証拠が、あまりにも揃いすぎている。橘は道の奥から声をかけてきた男たちを、顔も見ずにあしらって、痛む頭を押さえて歩いた。あちこちから「あら、昨夜の」と声がかかる。「具合はどう」「何があったの」なんて、何があったのか、そんなのはこちらが知りたい。
 食事をした覚えはないと言って財布を見れば、確かに所持金がいくらか減らされていて。殴られた証拠だと頭のたんこぶを見せれば、それは転んで倒れたからでしょうと、面白い冗談でも聞いたみたいに笑われる。まるで自分が二人いたかのような話ではないか。そうまでして――誰がなんのために、自分をここに連れてきたのか?
(……分からないことばかりだ。だが、今はとにかく)
 あまりに不可解な状況ゆえか、それとも本当に、この体が大量の酒を飲んだとでもいうのか。はたまた殴られたからか、眩暈に加えて吐き気がする。確実なことはただ一つ。昨夜、自分はネリネに会いにいっていないということだ。
 彼女のことだけは、なんとしても片をつけてゆかなくては。切り替えきれない頭を無理やりに切り替えて、支部に向かって、坂下を出ようとしたとき。
「ここにいたのか!」
 怒号と呼ぶべき叫び声が、橘に向かって放たれた。驚いて振り返れば、純白の外套に銀の肩章の光る肩をいからせた、
「犀川少佐!」
「探したぞ、橘中尉。君の後に宿営地を出た、通信兵が一人殺されたんだ。君の身にも何かあったかもしれないと思い、急いで追いかけてきてみれば……!」
 こんなところで飲んだくれていたとは、何事だ。胸ぐらを掴んで叫んだ犀川のむこうに、申し訳なさそうな顔をした坂下の住民が数人、柱の陰から橘の様子を見守っていた。きっと犀川に訊ねられて、黙っておけずに話したのだろう。昨夜、ここにいたという、もう一人の橘のことを。
「誤解です、犀川少佐。俺は……っ」
「黙りたまえ、これ以上蜂花の恥を曝すな。まったく、前から連帯意識の低い奴だとは思っていたが、戦績が良ければ何をしてもいいなどと勘違いをされては困る!」
 その発言に、橘ははっとして、自分の圧倒的不利な現状に気づいた。犀川は橘を、よく思っていないのだ。
 将校の中ではまだ中尉という下っ端の階級でありながら、実戦の戦績に優れた橘は多くの者から一目置かれていた。特にこのところは――ネリネを救うための行動の一環だったのだが――軍議での発言も目立ち、いよいよ頭角を現してきた印象があった。飛び抜けてゆく者に与えられるのは、称賛や羨望だけではない。
 嫉妬や反感といったものは、必ずついてくる。
「急ぎ戻るぞ。時間がないんだ」
 犀川が逃がさないというように、橘の腕を掴んだ。衆目に曝されるのも構わず、橘は大声で叫んだ。
「お願いします。ネリネの……、契約者のところへ行かせてください」
「なんだって?」
「すべての責任は必ず負います。だから行かないと……!」
 事情をいくら説明したところで、犀川は話を聞こうとしないだろう。ならばいっそ、この程度の罪は認めてしまったっていい。ネリネに会って、例え今日は逃げられなくても、裏切るつもりは絶対にないと、それだけは示してこなければ。
 だが犀川は呆れたように眉を顰めて、はあ、とため息をついた。
「飲みすぎるのも大概にしたまえ」
「え……?」
「私は今、君を探して支部からここへ下りてきたんだ。門兵は昨夜、君を通して、出ていくところを見送ったと言っていたぞ」
 頭が、今度こそおかしくなりそうだった。さあ、と急き立てる犀川の前に、少年が二人、それぞれ馬を連れてやってくる。一頭は犀川の馬、もう一頭は昨日、橘がシランから借りた馬だった。もはや橘には、何も言えることがなかった。ぐるぐると考えているうちに、半ば殴るように肩を叩かれ、馬に乗せられた。
 血清剤の吐き気が、また襲ってくる。
(……無理だ。今はこれ以上、逆らったところで)
 走り出した馬の背に揺られて、橘はそう観念した。ネリネを不安にさせるのは心苦しいが、ここで犀川と争えば、余計に不信感を買って自由を失う。幸い、看護婦はまだH75の原液をたっぷりと持っているはずだ。一週間か二週間か、予定より計画が長引いたところで、素知らぬ顔で協力を続けてくれるだろう。
 機を見計らって、もう一度戻ってくるしかない。坂の上に聳える耐火煉瓦の壁を見上げて、橘は心の内で必ず戻ると誓った。そして次の作戦地へ赴き、夜明けと同時に一番槍となって青興へと斬り込み――

 十日後、戦地の最前線でネリネの訃報を聞いた。


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