第3章


「やるだろ? まずは二万お前に返って、二万が橋の通行税。ここまでで四万だ」
「……!」
「残り六万ありゃ、バザールで相当美味いモン食って、何でも買えるぜ?」
 悪魔は、人の心の弱い部分に語りかけるという。
 タミアの脳裏に、煌めくバザールが映し出された。たった一杯だけ飲んだあの甘いレモン水の目映さが、今も宝物のように記憶のふちで輝いている。お菓子も、服も、アクセサリーも、バザールには言葉で表しきれない輝きが溢れていた。
 あの中を、いつか手にできたらと憧れて通り抜けるのではなく、何を買おうかな、と眺めながら歩く自分の姿を想像した。
「やりましょう」
 一言で言おう。最高だ。
 はっと口を押さえたときには、もう遅かった。タミアは自分の発した言葉に、救世主を見る目を向けているハートールと、賛美の眼差しを送っている副団長、そして親愛に満ちた――これだからお前扱いやすくて好きだぜという顔の――ログズ、三者三様の視線が集まっていることに気づいて青ざめた。
 あ、と固まったタミアの前に、おずおずと差し出される手のひらがある。
「ごめんね、こんなこと、君みたいな若い女の子に頼むのも情けないんだけど」
「ハ、ハートールさ……」
「ボクの無実を、証明してください。ボクからもお礼は考えておくから、どうかパパの代わりに、ジンの灰を持ってきてほしい」
 疑いのない、まっすぐな眸で乞われて。タミアはもう、何も言えなかった。ぎこちなく頷いて、厚い手を握り返す。
「ま、任せてください」
 泥舟に乗ったつもりで、と心の中で地面に頭をつけて詫びた。



「おおい、二人とも。待たせたね」
 夕刻、抜けるような青空が橙をたなびかせて藍色に変わる頃、人波の奥から手を振る人があった。
「副団長さん」
 坂道を下っていた足を止め、タミアが大きく手を振る。バザールの方角からやってきた彼はギルドにいるときより軽装になっていたが、腰に提げた剣はそのままで、却って武装が目立って浮いていた。
「お疲れ様です。プライベートでも帯剣してるのね」
「もちろん。勤務時間ではないと言っても、目の前で事件が起こったときに動けなかったら悔しいからね」
「真面目だなァ、どいつもこいつも」
 考えられないというように、ログズが呆れて肩を竦めた。ちょっと、と諌めるタミアの小言を聞き流して、ワゴンに積んであった砂糖菓子をひとつ、口に入れる。
 それは? と副団長がタミアに訊ねた。
「裏通りのお菓子屋さんの、宣伝っていうか……アルバイトしてたの。今晩の宿代とか、そろそろ稼いでおいたほうがいいなと思って」
「ああ、そうだったのか」
「ジンもいつ出てくるか分からないしね。ただ待ってるよりは、情報を探すついでに仕事でもしたほうが有意義かしらって。そちらはどうだった?」
 アルバイトの時間は、黄昏までと約束している。そろそろちょうど頃合いか、とワゴンを菓子屋の方向へ向けながら、タミアは副団長にも経過を訊ねた。彼はうん、と頷いて、ワゴンを押すのを買って出る。
「概ね理解していただけたと思うよ。驚いてはいたけれど」
「そうよね。旦那さんが今どんな状況かも分からないなんて、ショックが大きいと思うわ」
「一瞬、蒼白にはなっていたけれど、ハートールが宥めてくれてね。先ほど三人で、ラフターンへの手紙と使いを送ったところだ」
 欠伸をしながらもう一台のワゴンを押して、ログズもそうかと、二人の話に相槌を打った。
 今朝、ハートールに彼の父親とジンの話を聞いてから、副団長はことの経緯を説明するためハートールの母を呼び出し、ジンについて詳しい事情を聞きに当たった。いわく、火のジンは実に五百万ガルムの値がつけられていたそうで――商人がハートールの父の「魔法使いになりたい」という望みの足元を見た値段ではあるが、元よりかなりの力を持つジンだったと予想できる。
 入手経路や封印した魔法使いについては、残念ながら母親は知らなかった。彼女は夫がジンを買ってきて旅に出たいと言い出した時点で口論になり、以降この話題に触れることはなかったという。
 無実の証明に希望を見出したハートールは、精神的に立ち直ったのか、母に代わってラフターンへの使いの準備を一通り行ったそうだ。気弱なところはあるが、稀代の商人の息子である。その辺りは見事な手際の良さだったと、副団長は語った。ハートールは仕事を終えて、今は地下牢を出され、自宅監視という扱いに変わったらしい。
 一方、タミアたちは夕刻に副団長と食事をしつつ、状況を報告しようという約束をし、それまでの時間をアルバイトに使った。
 こんなときに仕事なんて、と思わないわけではなかったが、ジンはいつやってくるか分からない。姿を消せる以上、こちらから探しても無駄足を踏む。ジンがまだログズやタミアを標的にしているならば、いずれ向こうから仕掛けてくるだろう。そのときを待ったほうが賢明だ。


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