第五楽章


「まず、三位。ラフマニノフの『鐘』を演奏した、十二番――」
 もっと長い挨拶が始まるのかと思ったが、三田は余計な話はせず、手元の紙を見て発表に移った。これがピアノ教室の発表会ではなく、大会なのだということを痛いほどに思い出す、淡々として無駄な情のない発表だ。
 三位に選ばれた少女に、拍手が送られる。しかし彼女は、同時に今年の優勝を逃したことが決まったわけである。
 おめでとう、と健闘を称えるように、三田はメダルを渡し、少女を表彰台へ向かわせた。続いてすぐ、二位の発表に移る。
 拍手を贈っている他の演奏者たちの中に、凪がいた。
 あれから結局、全員の演奏が終わって、審査を兼ねた休憩のあいだに三田が訪ねてくるまで、凪はずっと控え室で眠っていた。慌てて出ていこうとした私に、大した時間はかからないからと言って、三田は一つだけ凪と話をしていった。
 それは、凪の棄権を認めない、ということ。
 夏の音ノ羽コンクールのやり直しでもある今回の戦いで、棄権や途中放棄という参加者はできるだけ出したくないのだそうだ。やってしまったことはやってしまったことだから、とりあえず最後まで出場してほしいと言われ、凪も分かったと頷いた。
 それじゃあもうすぐ発表だから、と二人一緒に控え室から出されて、私はまた会場へ、凪はステージの裏へ。席に戻ってくるともう、ほとんどの人が座って幕が上がるのを待っているところだった。私は置いてあった花束を抱いて、静かに並んだ家族の間に座った。
(緊張……の、しようがないわね)
 二位の少年に拍手を送りながら、私は周りに聞こえないようにため息をついた。
 最後まで参加してくれとは言われたが、凪は実質、審査の対象になりようがないだろう。優勝も何もない。自作の曲で参加など、そもそも想定外すぎて、認められているとは思えない。
 本人もそう分かりきっているからか、表彰台に上る同志たちを見送る様子は穏やかなものだ。他の子のように一喜一憂する顔も見せず、背筋を伸ばして、拍手を送っている。
「優勝は、ショパンの『華麗なる大円舞曲』を演奏した、八番、高岡絵理さん」
 わあっと、会場からも一番大きな拍手が沸き起こった。凪の隣に立っていた女の子が、信じられないというような顔をして、口元を両手で覆った。
「おめでとう、こちらに」
 三田が微笑み、彼女を表彰台へ上がらせる。その首に優勝者のメダルと、手にトロフィーが与えられて、彼女は初めてこの優勝が現実だと認識できたように、歓喜の涙を零した。
 私は拍手を送りながら、審査員の一人が三人それぞれの評価の理由を述べ、優勝者の少女には今後一年間、地方のコンサートで楽曲の一部を担当してもらうことなどを改めて説明するのを聞いた。隣の席では片や喜びに崩れそうなほどになり、片や消沈して言葉もなく、周りの家族たちは三者三様だ。審査に文句を言っている人もいる。それを宥める人も、また傍にいる。
 凪の家族が放送席でどんな顔をしているのか、何を思って今、この発表を見ているのかは分からない。けれど私は、すっきりしていた。評価はなくても、凪は自分の決めたことを全うできたのだ。それだけで、何よりの結末だろう。
 しかし。
「それでは最後に、もう一名、名前を呼ばせていただきます」
 マイクを取って、再び客席に向き直った三田の言葉に、会場がざわめいた。見れば、参加者たちも一様に驚いた顔をしている。
 三田の目が、客席の中心を通り過ぎ――ふと、私の上に一瞬、止まった気がした。え、と思ったときにはもう、その目は奏者の列に注がれていて。
「特別賞、九番、天川凪さん」
 まっすぐに、私のよく知る少年へと、三田の手が伸びた。
「本来、このような賞は用意していませんでした。なので、表彰台も贈れるものもありませんが……さあ、前へ」
「え……っ」
「音ノ羽は、若いピアニストを育てることを目的としたコンクールです。そして若いピアニストには、今あるものだけでなく、たくさんの新しい音楽が必要だ」
「三田さん、おれは」
「いいんですよ、天川くん」
 戸惑う凪の肩を押して、三田が彼を、表彰台の隣に立たせる。そうして、眼鏡の奥で笑って、言った。
「これは、誰のおかげでもない。君の行動と実力が掴んだ、我々からの、正当な評価です」
 紅茶色の双眸が、大きく見開かれる。
 会場のどこかから、ぽつり、と拍手が湧き起こり、やがて豪雨のような歓声と喝采のあられになった。隣の人も、その隣も、みんなが凪に喝采を送っていた。おめでとうと、後ろのほうから叫ぶ声がある。テレビカメラを担いだ男性が、ステージの傍を忙しなく行き来している。
『それではこれより、花束の贈呈を行います。ご家族、ご友人の皆様は、どうぞステージの前へお進みください』
 鳴り止まない拍手の渦の中、アナウンスがそう告げた。周りの人たちが一斉に立ち上がり、前へ進み出ていく。
 会場の後ろのほうからも人がたくさん下りてきて、びっくりしていて出遅れた私は、すっかり後のほうになった。
 おめでとうと、表彰台に立った子たちがたくさんの祝福をもらっている。そして驚いたことに、多くの人たちが凪にも歩み寄り、口々に感想や応援を残していったのだ。
 凪の前は人だかりができ、列が遅くなった。ゆっくり、ゆっくりと近づいていきながら、一人一人に身を屈めて、まだどこか信じられないというような顔で礼を述べる凪を見て、私は一人、ああと目を伏せる。
(……眩しい)
 なんて、大きな翼のある人だったのか。たったの一度、強く羽ばたいただけで、こんなにも遠く高く飛び立ってしまう。私の膝で眠っていたことなど、もう幻影のように。目映いライトの下でも、彼はその羽を失わない。
 手の届く場所にいたこと自体が、奇跡だったのだ、と。
「……おめでとう、凪」
「はづき……!」
 思って、顔を上げた私は、差し出した花束ごと引き寄せられて、ステージに身をぶつけた。
「な、凪」
 背後でわっと、どよめきが起こったのが聞こえる。膝をついた凪の肩越しに見える少女が、呆気に取られたように頬を赤らめている。加減を知らず締めつけてくる腕に、前にもこんなことがあった気が、と必死になって背中を叩くと、ようやく解放された。
 息をつく暇もなく、凪の目が、私を覗き込む。
「はづき」
 たった一言、それ以上は何も言えないというように私の名前を紡ぐ、その唇が。柔らかに微笑んだとき、私はあれ、と瞬きをした。
 私は、凪のこの顔を、よく知っている。
 何度も何度も、横顔でばかり、両手で足りないほど見てきた。優しくて、少し泣きそうで、愛しくてしかたないというようなその顔は。
(……自惚れじゃ、ないのなら)
 花束を置いて、両手を伸ばす。
(連れていってほしい。貴方の目指す場所まで)
 傍にいた人たちが、静かに息を呑む。凪は一瞬、驚いたような顔をして、私をもう一度、強く抱きしめた。
 銀色のフラッシュが、私たちを写している。客席から歓声と動揺の入りまじった声が、拍手と共に降り注いでくる。もう何の言い訳もできないくらい、大勢の人の目が私を見ているけれど、どうなったっていいやと思って、凪の背中に両手を回した。
 音楽が聞こえる。私の中に光を射させる、温かくて眩しい、凪の旋律が。
 高鳴る胸の音が共鳴するままに、私はいつまでも凪を抱きしめていた。世界がまた、大きく変わる。そんな予感がしている。



『流星傷年』/fin.


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