第五楽章
「よかった、はづきが気に入らなかったら意味がなくなるところだった」
「なにそれ?」
「別に? 分かってないけど伝わったみたいだし、十分、頑張った甲斐はあったかな」
満足そうに笑っているが、私はまったく分からない。もしかして、技術的にとても高度な演奏があったとか、革新的な作曲法が使われていたとか、そういうものが仕込んであったのだろうか。
仕方ないじゃない、曲からそんなに色々なものを読み取れるほど、クラシックを聴いている人間じゃないんだから。そう唇を尖らせながら、本当にまったくなあ、と思う。
凪の「がんばる」には、一体どこまでたくさんの意味が込められていたのだろう。あんな一言で、厚い殻を破って、彼は自分の未来まで続く道を歩き始めてしまった。
そこまで頑張らせるつもりで、けしかけたわけではなかったのだけれど。
でも、それだけピアノが大切ということだ。手放すか続けるかと選択を迫られたときに、こうも潔く、中途半端ではなく、人生を捧げて続ける決断をするほど。
「ありがとね、はづき」
「え?」
「おれ、あのとき行き合ったのがはづきでよかった」
唐突に、まじめにそんなことを言うものだから、驚いて押し黙ってしまった。
凪は沈黙が気恥ずかしくなったのか、困ったように目を逸らして笑う。そうしていつもの、ちょっと斜に構えた顔で、だってさあ、と続けた。
「はづきくらいでしょ、どこの誰とも分かんない相手を匿ってくれるのなんて。挙句ごはんは作るし、服は買ってくるし、出ていけとも言わないし」
「それは……」
「猫かなんかと勘違いしてないかなって、びっくりしちゃったよ。でもさ、そういうはづきじゃなかったら、今頃おれ、どこでどうしてたか分かんないなって思うんだよね」
「凪……」
「家に戻れたのも、しばらくはづきのところで、色んなこと忘れて暮らしたからだと思うんだ。作曲家になろうとか、そういう発想が湧いたのも。はづきから聴いて、どう思った? なれるかな、おれ」
作曲家にさ、と。いつもの口調で訊いた凪に、私も思わず、軽い勢いでうんと返しそうになって。その目がまだ、まじめな色を消しきれていないのに気づいて、開きかけた口を一度噤んだ。
「……私は、音楽のことなんて本当に分からないし。多分、よほどおかしなものじゃない限り、自分で作ったなんて言われたら、それだけですごいと思えちゃう」
「うん」
「世の中の人は、案外そう簡単じゃないわ。私みたいに単純なのばかりじゃないから、色んな意見が出るし、専門家だっているし、きっと多くの人の心を掴むっていうのはすごく難しいと思う」
「……うん」
「でもね」
膝に置いた両手を、強く握りしめる。
「私は、なれると思うわ。だって、さっきの曲、大好きだから」
「え……」
「何を言っているのか分からないかもしれないけど、これってすごいことなのよ。私、ふだん好きなものなんて、何にもないの! 何でも好きだけど、嫌いじゃないっていうだけで、特別に心を惹かれるものなんて、ほとんどないんだから」
笑顔で言えば、凪は呆気に取られたように、紅茶色の目を大きく瞬かせた。
本当のことだ。客席で凪の演奏を聴いたとき、私は演奏それ自体と、もう一つ、自分がこんなにも何かに心を持っていかれるなんてということに驚いていた。傍から見ればただの、聴衆の一人にすぎなかったかもしれない。でも私の中には、あのとき、これまでの人生を塗り替える革命が起こっていたのだ。
私は、私のような人がごまんといることをよく知っている。「特別」を持たず、突出した好き嫌いのない生活をし、私の売り込むような化粧品を使い、何となくで作られた毎日を送っている人が。
凪の曲は、その一人だった私を大きく揺り動かした。すべてが曖昧だった私の世界に、はっきりとした光として響いてきた。手を伸ばして、もっと近くで聴きたいと思った。
そんな欲求が、自分にあることさえ知らなかった私が。
「……ありがと」
「言っておくけど、お世辞じゃないから。頑張ってよ」
はいはい、と笑う凪を横目に見て、心の中で呟く。
一人の大衆が愛するものは、百人の大衆が愛すると相場が決まっているのよ、と。だからきっと、私だけじゃない。この先、凪の曲を愛する人はごまんと現れる。
くあ、と笑ったついでのように、凪は大きな欠伸をした。
「眠いの?」
「ちょっと……、昨夜四時ごろまでかかったから」
「え、何が」
「作曲。あー、もう終わんないかと思った」
追い詰められた記憶を振り払うようにかぶりを振って、凪はずるずると、倒れるように私の膝に頭をのせた。ええっと、二重の意味で叫んでしまう。声が響くのか、眉を寄せてうるさそうにされたが、それどころではない。
「こ、これ、今朝できたの? 四時って、ほとんど朝じゃない」
「そうだよ……死ぬかと思った……」
「練習とか」
「六時に起きて、すっごいやった。ねえはづき、会場戻りたい?」
「え、や……私も凪の答えが聞けて、気が抜けちゃったっていうか……もう、休憩時間もすぎちゃったし。いいかな、って感じではある、けど」
「ごめん、しばらく寝かせて。三田さん来るから、ノックあったら起こして」
「えええ……」
「絶対怒られるでしょ……それまで寝てたい……」
靴を脱いで、パイプ椅子に足をのせ始めた凪を見て、ああもうこれは動く気がないなと諦めの感情が湧いた。うっすらと化粧をしていて気づかなかったが、言われてみればひどい隈だ。顔色も悪いし、最後に会ったときよりちょっと痩せている。
(それもそうか……)
一ヶ月と少しで、これだけ多くの決断を繰り返して、その上作曲だなんて。頬にかかった髪をそっとどけると、睫毛が震える。
「凪」
「なに」
「楽譜、見てもいい?」
「んー……いいよ」
起こすまでの暇つぶしと、凪がこの夏を注ぎ果たした結晶に触れてみたかったのと、両方で。私は楽譜に手を伸ばして、テーブルに広げた。読めないくせに、という寝言は聞こえないふりをする。
感想は、まあ、びっしりだ。音符がいっぱいあった。
「あ、ねえねえ」
「なに……」
「この曲、タイトルはないの?」
並んだ五線譜の一枚目、おそらく曲名を書き込むのであろうところが、空白になっている。
凪がぱちりと目を開けて、勢いよく身を起こした。私の手から楽譜を奪い取って確認し、腹の底から、安堵したようにため息をついて、またずるずると寝転がる。
一体なんだ、と困惑していると、凪は膝の上で薄く目を開けた。私と視線がかち合うと、観念したように口を開いた。
「あるよ」
「やっぱり」
「でも、絶対教えない」
「……へ?」
絶対、のところに、眠い人とは思えないくらい力を込められた。なんだそれ、と悔しいようなもどかしいような気持ちで不満げにうなる私に、ほとんどくっついた目の奥でいたずらに笑って、告げる。
「いつか、おれが作曲家になったら教えるよ。それまで待ってて」
たっぷりと下りていた臙脂の幕が、金色の裾を引っ張りながら上がっていく。ステージに明かりが点くと、そこには先ほどまであったピアノの代わりに表彰台があり、二十余名の演奏者が一列に並んで姿勢を正していた。
「お待たせいたしました。これより、今年度の優勝発表を行います」
放送席から聞こえていた女性の声ではなく、ステージに立った三田が自らマイクを取り、客席に向かって礼をする。主に、私たちのいる、招待客の席に向かって。
両隣の家族が深々とお辞儀を返したので、私も一拍遅れて軽く頭を下げた。我が子の順位がこれで決まるという家族ばかりだからか、ぴりぴりと張り詰めた空気が漂っていて、何とも場違いの感が否めない。
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