第五楽章
「おれは、ピアニストになろうとすることを辞めます」
宣言に、息を忘れる。
え、と思わず唇から漏れた小さな呟きは、会場のあちらこちらから上がった同じような声に紛れた。ピアニストの夢を、捨てる。今、そう言ったのか。
「でも」
頭が真っ白になって、愕然とステージを見つめる私の前で、凪は力強く言葉を続けた。客席がまた、一斉にその先を聞こうと静かになる。
凪の目が数秒、言葉を探して揺れた。
「先ほどの演奏は素晴らしかったと思います。どうして今、そんな決断を?」
沈黙に声を上げたのは、テレビの取材の人だった。彼らの声に、凪は顔を上げる。
「今ではなくて、決断した上でこのコンクールに臨みました」
「なぜですか?」
「ニュースを見て、知っている方も多いと思います。おれは、自分が天才ではないことを知ったからです」
抉られたように強く、胸が痛んだ。会場のどこかからも、痛むようなため息や「そんな」という声が聞こえた。でも、と凪がマイクを握りしめる。
その目がまっすぐ、何百とある客席の中の、私を見た。
「でも、おれはピアノを辞めたくありません」
「は……」
「奏でることの天才じゃない。演奏するだけで、ピアノと生きていける人間じゃないんです。それを自覚して、その上でちゃんと考えてみた結果、それでもやっぱりピアノ以上にやりたいものはないんだと思いました。――なので」
ぴんと張った糸のように、合わせた眼差しの上で、凪は笑う。
「作曲家を目指します。おれが弾くんじゃなく、たくさんのピアニストに世界中で弾いてもらえるような、そんな曲を作りたい。おれはそうやって、ピアノと関わっていきたいと決めました」
「天川くん……」
「三田さん、本当に勝手なことをしてすみません。この場を借りて宣言したかったのは、今後コンクールに出ることがなくなったとき、世間の人から、逃げたと思われるのが嫌だったからです。この場に呼んでくださったこと、感謝しています。おれは棄権します。音ノ羽を引き継いでくれて、ありがとうございました」
マイクを下ろし、審査員席の三田に深々と頭を下げて、凪は最後に客席へ向かっても一礼すると、ステージの奥へ戻っていった。フラッシュとざわめきが、その背中をいつまでも追っている。アナウンスが次に流れるまで、しばらくの時間を要した。
『皆様にお知らせをいたします。本コンクールは、これより十分間の休憩を取らせていただきます。再開は十分後の――』
膝に置いた鞄から、振動が伝わってくる。私はそっと携帯を探し、ディスプレイを見て、立ち上がった。
受付のあったロビーの、右の廊下を進んで、突き当りの角をまた右へ曲がって三つ目。
メールにあった通りの道順を辿って、着いたのは等間隔にドアの並んだ、ホールの裏側の廊下だった。天川凪、と名札のかかったドアを見つけて、本当にここよね、と少し緊張しながらノックをする。
返事より先に、ドアが内側から開けられた。
「はづき! メール気づいたんだ?」
「あ、ごめん。なんか急いで来ちゃって、返事しなかった……」
「平気、入って」
顔を出した凪は、廊下に誰もいないことを確認するように見回して、私の腕を掴んで引っ張りこむ。よろめきそうになりながらお邪魔する後ろで、ドアが閉められた。
控え室の中はホールと違って、白い壁と白い天井に剥き出しの蛍光灯が並んで、小さな窓がついて、眩しいくらい明るい。会議室にあるような長テーブルが壁に沿って一つと、パイプ椅子が三脚あるだけの、細長くて小さな部屋だった。
促されるまま、その椅子の一つに腰を下ろす。テーブルの上にはさっき使っていた楽譜が畳んで置いてあり、凪はそれを端に避けて、隣に腰を下ろした。
「久しぶりだね、はづき。来てくれてありがと」
そうして、改めて向き合うと、なんだか本当に久しぶりで言葉が出なくなってしまう。うん、と言ったきり唸るように何も言えなくなった私を見て、凪はテーブルに肘をつき、しょうがないものを見るみたいに笑った。
「元気そうで、」
「うん」
「……っよかった」
「うん、はづきも」
たったのこれだけでも、交わす言葉や空気の端々に、ああ凪だ、と感じる部分があって、私はまた懐かしさで声を詰まらせてしまう。
七月の終わりに出ていってから、一ヶ月と少し。あれから直接、顔を合わせたのは今日が初めてだ。
先月の半ばに電話があってから、携帯での連絡は取っていたが、コンクールに向けて準備があると言って凪は一度も会おうとはしなかった。まだ会わないほうがいいと思う、とも言っていたので、もしかしたら記者や学校の先生など、一部からの追究が捌ききれていなかったのかもしれない。
訊いても「大丈夫」と「コンクールには来てほしい」しか言わなかったので、途中からは私も訊くのを諦めた。凪の声が、一緒に暮らしていたときとは違ってしっかりしていたから、大丈夫というのなら信じてみようと思って。
まさか、こんな形で答えを聞くことになるとは、予想もしていなかったけれど。
「作曲家になるんだ?」
長い沈黙から、やっと口を開いた私に、凪は微笑む。
「うん。あれから色々と考えて、決めたんだ。ピアニストを続けるって答えじゃなかったこと、怒ってる?」
「ううん、びっくりはしたけど……ピアノと関わっていく仕事は、何もピアニストだけじゃないのよね。私は考えもつかなかったから、ピアニストを辞めるって聞いたときは、一瞬心臓が止まったかと思ったけど」
「そうだよね、ごめん。はづき、すごい顔してたから、急いで本当のこと言わなきゃと思ったんだけど、いざステージに立ったらなかなか喋れなくて」
「私がいること、やっぱり気づいてたのね?」
「席順で、大体どのへんかなって先に見ておいたから。絶対来てくれると思ってたし」
「ご家族は呼ばなかったの?」
「いや、来てるよ。騒ぎになるといけないから、放送席から見てるんだ。本当は、呼びたくない気持ちもあったんだけど」
でもやっぱり、あんなことをするなら、一番聞かせなきゃいけない人だとも思って。
呟くようにつけ加えられた凪の言葉に、私はそうねと頷いた。ご家族、と訊いたが、私が言いたかったのは母親のことだ。凪も分かっているのだろう。綺麗に梳かした髪をかき上げて、疲れたように笑う。
「事前に、報告とかは?」
「してない。もっとも、コンクール曲の練習、全然してなかったからさ。ちょっとは何か、気づいてたかもしれないけど」
それもそうか、と私も納得した。何も訊かなかった辺り、母親も今は凪に対して、色々と思うところがあるのだろう。他人である私に裁く権利はないが、彼女はやってはいけないことをした。凪の決断に、口を出せる立場ではない。自分の夢から、凪を一人の人間として、ちゃんと切り離してやること。それが母親にできる、最大の償いだ。
「それよりさ、はづき。どうだった? さっきの曲」
家族の話はまだあまりしたくないのか、凪は沈んだ雰囲気を振り払うように、顔を上げて言った。そういえばまだ一言も感想を言えていなかったと思い出して、私もあたふたと口を開く。
「すごく良かったと思うわ。私、凪が弾くのはもっと、物悲しげな曲ばかりだと思ってたから、あんな演奏が始まると思わなくて驚いちゃった。まして、作ったなんて……自分で作ると、明るい曲を作るのね。きらきらして、優しくて」
「本当? ちゃんとそう聴こえた?」
「ええ、すごく。なんか、温かいのに、あんまりに温かくて胸が苦しくなるの。だけど綺麗で、聴いているのを止めようとは思えなかった」
演奏を思い返すと、光が今も瞼に甦ってくる。惜しむようにゆっくりと瞬きをする私に、凪は笑って脚を組み、頷いた。
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