[.「ナハトのルクシオン」


 自嘲するように、ルクは首を横に振った。灰色の髪が肩の上で、さらりと震える。私は彼らが魔王に対して何も言い出せなかったことが、情けないことだとは思わなかった。絶対的な存在を恐れることは、仕方のないことだ。途切れ途切れにそう伝えると、彼は私のほうを向いて、そうか、と笑った。
「状況がどんどん悪くなっていく中で、私はせめて畑仕事の助けになればと思い、農作業に魔力を行使するようになっていった。魔力をそんなふうに使っている者は他にいなかったが、私にとってはそのほうが体力を使わなくて済んだし、体が疲れていなければ食べるものもそれなりの量でごまかせる」
「……」
「初めは近くの畑だけでやっていたのだが、次第にそれが噂として広がっていってな。ナハトの外からも、助けを求めて訪ねてくる者があるようになった。それくらいになってから、だったな。どうやら自分が思っていた以上に、この体が使える力は大きいのかもしれないと自覚してきたのは」
 川の水が枯れたと聞けば雨を降らせて土を潤し、壊れた家を直す木材のとれそうな木がないと聞けば、庭先で種から育てて譲る。魔力で解決できる問題に関しては、協力を惜しまなかった。頼みがあればナハトの外へも、時には古びた馬車に乗って、ナハトよりさらに南の端にある奥まった村へでも出かけていった。
 体に疲労を感じることはあったが、魔力に枯渇を感じることはなかった。どれも応急処置のようなもので、根本的な生活の問題を解決できる手段ではなかったが、奇跡を見たように喜ぶ人々の顔を見ていると、自分の行っていることは無駄ではないと信じることができた。
 来訪者は後を絶たなくなった。ルクはほとんど休みなしに、ナハトと近隣の村を行き来する日々が続いていた。
「そんなことが、半年も続いたころだ。私の噂が、城にいる魔王の耳まで届いた」
「え……っ」
「商人が、血相を変えてうちへ飛び込んできてな。隣村で魔王の騎士団があんたを探してる、皆どうにか隠そうとしているが、慌てふためいて隠しきれちゃいない。時間の問題だって」
 ――ナハトのルクシオンという男を、見つけ出せ。
 南部から遠く離れた城でルクの噂を耳にした魔王は、直感的に彼を、無視できない存在だと感じ取ったらしい。腐っても、この世界を統べていた力のある人だ。本能的に自分と同じ、強いものを見抜いたのかもしれなかった。
「騎士団は、すぐに私を見つけた。どうして私が探されているのか、本音は隠れて逃げ出したかったが、生憎ナハトでは隠れる場所もほとんどない。ついてくるように言われて、断ったら武器を向けられた。――気づいたら、私は必死で彼らと戦っていたんだ」
 ――抵抗するようならば、殺して戻れ。
 魔王からの命令に、百人を超える彼の騎士団は一斉にルクへ槍を向けた。眼前に迫った槍の先に、あ、と声が漏れる。その一声が、力を持った。透明な風の防壁が、切っ先を弾いて渦を巻き、呆然とするルクの目の中で竜巻を作った。
 眠っていた本来の力が、危機によって呼び起された瞬間だった。おそるおそる、手のひらを宙にかざす。その向こうで、たったいま槍を振りかざした男が、鎧兜の奥から覗く銀の目を驚きに染めて見下ろしていた。
「それから、約三日間。私は、ひたすら防壁を作る魔法ばかりを唱えていた」
「え?」
「どうしたらよいか、分からなかったんだ。死にたくないと思っていたが、同じくらいに、自分が誰かを傷つけるということが考えられなかった。頼むから引き下がってくれと、彼らが諦めて、何もかも冗談だったように背中を向けて帰ってくれることばかり望んでいたよ」
「ルク……」
「そして三日目に入ったころ、私も限界が近づいていたが、騎士団が先に武器を下ろした」
 透明だった風の防壁は、長時間に及ぶ攻防によって巻き上げられた土や枯草が入り込んで、向こう側に立つ騎士団の姿さえ霞むようになってきた頃だった。霞んでいるのは砂のせいだけではなく、極度の疲労のせいでもあった。
 だが、それは騎士団も同じことだったのだ。彼らは魔王が「殺せ」とまで指示したルクを、恐れていた。騎士団は食料も水も寝床も用意していたが、百人の力を前に耐え続けるルクを目の当たりにして、実は誰一人としてろくな休息をとっていなかった。これ以上は無理だと判断したのは、最初から最後まで、前線で挑み続けてきたあの銀の眸の男だった。
 彼は霞んだ壁の向こうのルクに見えるよう、槍を両手で上へあげると、足元に置いた。そして全員がそれに倣って武器を手放し、鎧兜を脱いだ。
「正直、私も意識が途切れかけていた。疑う余裕も、難しいことを考える力も残っていなくて、防壁を解いたよ。誰も襲ってはこなかった。怪我なんて誰一人していないのに、皆立ち上がる気力もなかった。それを見たら、気が抜けて……倒れた私のところに、一人の男が這うようにやってきた」
 ――ゼークシュトラウム=グレンダン=デッケンと申す。
 私はルクの言葉に、大きく目を見開いた。彼は無言で頷いて、テーブルに片手をついて続けた。
「ゼンは私が即位する前から、騎士団長だったんだ。今よりずっと、眼光が鋭くて怖い顔でな。やっぱり殺されるんだろうかと、一瞬思ったくらいだ。でも、彼は武器を持っていなかった。私の体を起こして、ふらつきながら……頭を下げた」
「ゼンさんが、ルクに?」
「信じられない話だが、本当なんだぞ? それで、言われたんだ。――どうか魔王を討つために、共に戦ってくれないか、と」
 初めは、何を言われているのか分からなかった。もう一回戦えなんて無茶な話だ、と思った。ただ、朦朧とする頭を何とか動かして見たその男は、ひどく追い詰められた眼差しをして、振り絞るような声で「頼む」と言った。


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