[.「ナハトのルクシオン」


(そういえば、タリファさんが作り方を教えてくれたから)
 作った覚えのない二杯目に思い当たって、ああと納得する。インスタントでないコーヒーを淹れるのが初めてだった私に、タリファさんが最初から最後まで、一通り実演で教えてくれたのだ。
 ワゴンに載せられていた二杯目を、何の疑問もなしに運んできてしまったが、良かっただろうか。ちらりと見れば、ルクは特に気にする様子もなく、真ん中にミルクと砂糖を置いた。――タリファさんが持ってこさせたということは、これで良いのかもしれない。温かい湯気を立てる水面を覗き込み、ルクと二人、いただきますとカップに手を伸ばす。
 ピッチャーのミルクはちょうど、二人で半分ずつ使って空になる量だった。砂糖を二杯入れて、綺麗に溶けるまでかき回す。ブラックコーヒーは苦手だ。まったく飲めないとは言わないが、それに近い苦手さである。シュガーポットの蓋を閉めようとした私の手を止めて、ルクは自分のカップに砂糖を一杯入れた。
「仕事のほうは、順調なのか?」
 ミルクと砂糖を入れられて急速に温度を下げていくコーヒーを、冷め切る前に一口飲んで、ルクがそう切り出した。わざわざ呼び出されるということは、大方こういう話だろうとは予想がついていた。ポケットから取り出したポイントカードを、彼に渡す。
「そろそろ、ちょうど三ヶ月になるか」
「うん」
「……はは。思ったより、かかってしまったな」
 カードを受け取り、テーブルに頬杖をついてルクは苦笑した。私が魔界に堕ちてきてから、もうすぐ三ヶ月が経とうとしている。ルクが最初に、私がここで生活する目安として提示した期間だ。
 カードに貯められたポイントは、三千五百ほど。残念ながら五千には届かなかった。着実に増えてはいるが、もうしばらく、お世話になる必要がありそうである。
「ごめんね、長居して」
「私は別に構わないが……、君にとっては、そういうわけにもいかないか」
「当たり前でしょ、もうかなりゆっくりしちゃったもん。慣れるまでにちょっと、時間がかかっちゃった。元の世界では、家事なんてほとんどお母さんに任せてたから……」
 おかあさん。
 口にして、ふとその響きの懐かしさに言葉が途切れてしまった。いつ以来だろう。「おかあさん」という五文字の響きを、声に出したのは。
 頭の中では頻繁に、例えばベッドで眠るときや、休みの朝に寝坊をしたとき。お母さんは元気かな、とか、こんなふうに寝過ごしたら怒られてしまうな、と思い浮かべていた。心配しているだろうな、と考えていた。母だけではない。父のことも兄のことも、三ヶ月という時間を離れた今でも、家族のことはふとした拍子に頭に浮かんでくる。
 ただ、それを言葉にする機会は、思うことの百分の一にも満たないくらいしかない。共に暮らしていたときは「呼ぶ」という行為があったけれど、傍にいない今は、お母さんもお父さんもお兄ちゃんも、口にすると空っぽになった貝殻のような懐かしさがある。
 家族の呼称を懐かしいと感じることに、確かな時間の経過を思い知らされた。忘れかけていた――認めたくはないが、たぶんあと少しで色褪せていきそうになっていた――玄関からリビングにかけての風景、キッチンの観葉植物、日に当たる階段の手すりの白さ、二階の自室の窓から見える電線と青空などの光景が次々と甦ってくる。
 それらは記憶ではなく、私の本来の日常だったものだ。
「寂しいか?」
 コーヒーカップを手離して、いつの間にかこちらを向いていたルクが言った。紫の双眸は、とても真っ直ぐに私を映している。ありのままの答えを求められている気がして、私は一度、目を伏せて、自分の中にその問いかけを繰り返してから顔を上げた。
「寂しくないとは言えないよ。でも、今はこの場所も好き。いつかは帰るけど、本当に」
「そうか。それなら、少しは良かった」
「うん。私、このお城の人たちって好きだよ。メイド仲間のみんなもいい人だし、騎士団の人たちも兵士さんたちも、最初は怖かったけど今は頼もしいなって思えるし」
 みんな、と口にするだけで、数えきれない人たちが頭に浮かんでくる。しっかり者のタリファさん、いつも面倒を見てくれるシダさん、良い友達になれたテティさん。彼女たちを始めとするたくさんのメイドさん、アルさん、執務室の前でいつも挨拶を交わす兵士さん。出会いは最悪でも、今ではお互いに打ち解けたゼンさん。そして。
「――――……」
「マキ?」
 ふと、ルクのことを思い返そうとしたところで、私の思考は緩慢に止まってしまった。最初はこの人を、どんなふうに見ていたのだったか。
 思い出せないわけではないのに、思い出そうとすると、私の思いではないものを引っ張り出しているように難しい。それは即ち、私の彼に対する印象や観念が、三ヶ月前と今とでは、別人の心のように大きく違っているということに他ならなかった。
「どうした?」
「あ、いや、なんでも……えっと、そう」
「ん?」
「ルクのお母さんって、どんな人なのかなって。ちょっと、気になっただけ」
 変化を上手く説明するのは難しい気がして、私はとっさに別の話を振った。私の母? と呆気にとられたように言ってから、けれどルクは温くなったコーヒーを一口飲んで、ふむと呟いた。


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