八章 -ウェストノールの風-


「掴まれ!」
 飛行艇は作り損ねた紙飛行機のように、斜めに急降下していく。咄嗟に前の背もたれを掴んだセネリは、落下していくシルクへ向かって手を伸ばした。一度、その手がシルクを引っかいて掴みきれずに落ちる。テオ。叫ぶ声に、背もたれを離して両手を伸ばしたセネリの体を、テオの片腕と二本のベルトが何とか座席に引き留めた。細い指が、しっかりとシルクを掴み取る。
「やった、届い――」
 だが、視線を前へ戻したセネリは、その紫苑の眸をいっぱいに見開いて息を呑んだ。やったな、と言いかけていたテオも、思わず口を閉じる。前、と震える声で言われて我に返り、正面へ向き直ったところで愕然とした。
「嘘、だろ」
 ごう、と強い風の音が耳を裂くように吹き荒れる。カルドーラが、眼前まで迫っていた。急接近を避けるために少しずつ高度を落としていたせいで、元々近くまで来ていたのだ。ほんの一瞬、目を離しただけだったが、高速で下へ向かう飛行艇と真っ直ぐに神殿へ進むカルドーラは、今まさにぶつかろうというほど傍へ迫りあっていた。
 レバーを掴んで右へ向けたが、飛行艇はたった今の急降下を処理しきれずにいるのか、方向転換の指示にのろのろとしか反応しない。渦を巻いて近くなる風の塊が、どんどん大きくなって見えた。
「……あ……」
 後ろでセネリの、凍りついたような声が聞こえる。どうしたらいい。ここから、どう動いたら。ありとあらゆる選択肢と、それを選んだ場合の結果と。数十、数百にも分岐していくように思える可能性が、テオの頭の中を駆け巡った。最悪の想像もその中には含まれた。飛行艇はようやく反応を取り戻しつつあったが、速度を落とすことはなく、真正面からカルドーラに向かっている。すでに迂回も間に合わない。その上、迂回を選べばカルドーラが向かう先は目に見えている。
 ――どうすれば。
 頭の奥に、つい先ほどのことか初夏のことか、どちらともつかない新しい過去と過ぎ去った現在が混じり合ったセネリの声が響く。これからあなたの飛行艇に乗る人たちと、ルーダと、すべてのあなたにこの空の風が微笑むことを願って。そこに一つ、その言葉では聞いたことがないはずの涙声が混じった。なあ、頼むよ、と思う。何にともつかない、すべてのものに。この体か、頭か、あるいはルーダかそれを取り巻く風か。叱責しているのか祈っているのかももはや定かでないが、こういうことになる約束で来たわけじゃないんだ、と。
 瞬間、頬に当たる風がほんの一瞬、変わった気がした。はっとして顔を上げ、眼前のカルドーラを見つめる。強い、容赦なく向かってくる風の力だ。セネリは何度となく瞼を押さえつつ必死にその根を見失うまいとしているが、ゴーグルをしていなかったら、きっとこんなふうに正面から見ることは難しい。
「――――」
 碧い眸いっぱいに、風が映る。テオの目には、決してその根が見えたわけではなかった。むしろそれは「見えた」というより「触れた」から分かった、というものに近い。頬に当たって髪を掬い、耳を切って後方へと流れていく風。


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