].星の宿り木


 深緑の表紙へ視線を戻して、マリアがぽつりと呟く。
「……物語の世界って、物語だからいいと思えるものもたくさんあるのね。どきどきしたとか、先が気になったとか、目の前にすると到底言えないわ」
「まあ、それが物語だからね。……辞めたい?」
「ううん」
「そうか」
返事に、迷いはない。彼はマリアの髪を指先で確かめるように撫でると、冗談めかして笑って、善処するよと約束した。嘘だ、と心の中でそれを暴く。これから善処する、ではなく、とっくに色々と手を尽くしてくれているだろう。この生活に早く慣れたいという気持ちから時々こうして突っかかるようなことを言ってしまうが、本当は誰より分かっている。彼はマリアが同行するようになってから、前よりもずっと穏やかな世界の物語を探して読むようになった。つまりは、そういうことだ。
 「ねえ、ジル」
 「ん?」
 「今、持ってるその本。それも、開くと……聞こえるの?」
 マリアは預けていた頭を起こして彼と目を合わせ、訊ねた。星読師の力のないマリアには、同じ世界を渡っていても一つだけ、共有できないものがある。金色の耳鳴りと、彼が呼ぶもの。耳鳴りに色がつくなどと想像もつかないことだったのだが、先日の調査に同行してきた別の星読師の一人が、当たり前のように全く同じことを言っているのを聞いて衝撃を受けた。
「ああ、うん。そうだね」
「……」
「聞こえるよ」
彼らには、当然のようにそう呼べる何かが、いつだって聞こえてくるのだ。生まれ持ったものばかりは、足掻いて手に入るわけでもない。だからマリアは、自分には一生聞き取れないだろうという確信がある。
「―――星の、声」
けれど、ここにいる、ここにいる、と。ただ訴えかけるというそれが、耳の奥に響いて鳴り止まないから。だから彼は、時々、ひどく申し訳なさそうな顔をしながらミステリーや奇談の中へ飛び込んで行ってしまうのだ。ごめんと笑って、怖がりだなとからかって、まるで離れていかないでというようにきつく手を握って。
 杞憂なのに、と思うけれど、それを言わないのは意地悪だろうか。いつか分かっているから大丈夫と言いたいけれど、今はまだ、もう少しそのままで。
 「そうだ、ジル。あのね、お母さんから伝言で」
 「え?」
 「今日のトウミツ祭、良かったらうちに来ないかって。今年最後のトウミツ祭だから、うちも小さいけれどパーティーをするの。どう?」
 ぼんやりと遠くの街を眺めていたマリアが、ふと思い出して言った。元はと言えばその話をしに来たというのに、すっかり忘れかけてしまっていた。トウミツ祭は小さな祭だが、毎年最後の月だけは皆、一年の感謝を込めてパーティーを開いたり音楽を奏でたりと、思い思いに羽目を外して過ごす。恋人を紹介するにも多く使われる日だ。そういう意図があって呼んだわけではないのだが、浮かれているなと思って、微かに熱が上った。
「行きたいけれど、いいのかな……」
「お母さんなら、心配することないと思うわよ?その……前はあなたのこと、あまり良く思っていなかったみたいだけれど」
「だろう?」
「でも、実は天窓が割れる瞬間を見ていたらしくてね。帰ってきた私が怪我をしていなかったのを見て、少し考えが変わったって」
母は元々、彼の職より人柄の知れなさを気にしている人だった。だからこそ天文協会が訪れるより早い段階で、彼に対する印象を変えたらしい。あのとき、降り注ぐガラスの下でマリアを庇えたような人物は、他に誰もいなかったのだから。それに、と続けて、マリアはまだ少し躊躇っているようなジルの眸を覗き込む。
「……分かりにくいかもしれないけれど、お母さん以上に大丈夫なの、本当はお父さんだと思うわ」
「え?」
「よく見ててあげてね、笑顔がすごく小さい人なの。でも、あなたが来たらきっと笑うわよ。だって、今日のことを提案したの、お父さんらしいから」
くすりと笑って言えば、彼は心の底から驚いたような顔をして、それから戸惑いと安堵を綯い交ぜにした笑みで頷いた。父はあまり、多くのことを明かさない人だ。けれどたった一言だけ、お前もいつの間にか成長したなと、星読師である彼の時間についてゆく生活をしたいと話したとき、そう言って笑った。


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