君に教えたい、新しい世界


「ほら、急いでくださいまし」

「な、待て、待たぬかナマエ」

夕暮れのエクバターナの郊外を馬で駆ける二つの影があった。二つとも大の大人のものである。先に駆けるのは20代半ばを超えたくらいの女でそれを追うのが30代ほどの精悍な顔立ちの男である。

「急がねば間に合いませぬ!!」

まだ沈みきっていない夕日に照らされたその笑顔が男の目にはやけに眩しく映った。



























ナマエとシャプールは政略結婚であった。彼女はパルス有数の諸侯(シャフルダーラーン)の娘で、シャプールは有名な武家の家柄である。歳は8つほど違うが、ナマエの明るい性格が幸いし結婚当初から仲が良いと評判である。2人が馬を並べて散歩する様子は別に珍しいものではなく、それを目撃したクバードは翌日大量の黒砂糖を2人の元へ送り届けた。それにシャプールが恥ずかしさから憤慨し、ナマエはありがたがってその砂糖で菓子を作り、後日感謝の手紙とともにクバードの元に送り返したのは有名な話だ。

王妃タハミーネのように絶世の美女というわけではなかったが、ナマエの美しさは非の打ち所がない美しさで容姿、性格、料理、武術全てにおいてマイナスな面がなかった。そのため彼女はシャプールの部下たち、屋敷の使用人や奴隷(ゴラーム)たちからもよく慕われていた。

そんな彼女の唯一の欠点といえば、無断でシャプールの屋敷を抜け出してしまうことだ。勿論置き手紙はしてあるのだが、庶民のような格好をして市場をまわり、子供達と歌を歌い、旅芸人の舞子たちと踊り、自由民(アーザート)の女たちと世間話をした。身分を気にしない性分の彼女だからできることであるのだが、屋敷から抜け出される方の身としてはたまったものではない。それでも子供の家でのように日暮れごろには必ず家に帰っているし、やるなと言えばかなりしょげてしまうのでシャプールは彼女の行動を黙認することにした。

今日も市場へ行っているかと思いながら、シャプールが少し早めに帰宅すると満面の笑みの彼女が家で待っていた。

「おかえりなさいませ、シャプール様」

「おお、珍しいな。今日は市場へ行かなかったのか?」

「ええ。シャプール様に見せたいものがあってお待ちしておりましたの。」

さあ、行きますわよ、と帰宅した夫の荷物を使用人に預け、そのまま馬小屋へ。馬小屋から二頭の馬を引いてくるなり、彼女はひらりと馬にまたがった。

「ほら、参りますよ?」

そう言ってシャプールが事態を理解し終えぬうちにナマエは馬腹を蹴った。そのまま爽快に駆けていく。

「あっ、待たぬか、ナマエっ!!」

シャプールが我に帰った時には既にナマエは既に50ガズほど先にいる。慌ててシャプールも馬に飛び乗り、その腹を蹴った。


エクバターナ市街も通るため、当然スピードは制限される。シャプールは馬の扱いに関して名人級であるがナマエもまたそうである。彼女の後を追うが一向にその背中を捕らえることができないでいた。

「あ、ナマエさまだっ!!」

「本当だ、ナマエさまーー!!」

口々に彼女の名が叫ばれる。それに彼女は丁寧に手を振り返していた。

「どこ行かれるんだい?」

「ちょっとね。」

「おや、シャプール様も一緒じゃないか。いいねえ、若い夫婦は」

「もう!!ユーナリおばさんったらからかわないで!!」

からかわれて頬を染めながらも、ナマエは幸せそうだ。

「シャプール様、ちゃんと繋ぎ止めとかんとナマエ様は街中の人気者だよ!」

突如話しかけられたシャプールは内容が内容だけにむっ、と顔をしかめた。数多の戦場を駆け抜けたシャプールは挑発など耳が腐るほど聞き飽きている。普段はそんなものに耳を貸さないが、愛する妻のこととなるとそれはそれは盲目になってしまうのである。

「こやつは俺の妻だ。口説くのは俺より地位も名誉も武術も全て勝ってからにするんだな」

真面目な顔でシャプールが言い放つとナマエの顔がさらに真っ赤に染まる。馬上で俯いて顔を隠すナマエとその後ろに続くシャプールを暖かな冷やかしが包んだ。

「愛されてるねぇ」

そんな一言が、ナマエにはとても嬉しかった。



そんなことを経て、冒頭に戻る。
ひとしきりナマエに追いついたシャプールであったが、ナマエは市街地を出た途端、大変っと言って再び馬腹を蹴ったのだ。慌ててシャプールも馬腹を蹴った。

そのまま1ファルサングほど駆けると、二人は小高い丘に差し掛かった。その頂上に差し掛かったところでナマエが馬を止めた。

「間に合いました」

ナマエはひらりと馬から飛び降り、満面の笑みでシャプールを振り返る。そのままシャプールにも振り返るよう促した。シャプールも馬から降り、それに従い振り返る。そして、ほう、と感嘆の溜息を吐いた。
すでにその上でいくつかの星が輝くエクバターナの城と街を沈みかけの夕日が赤く照らす、何とも幻想的な光景がそこにはあった。

「これを、お見せしたかったのです」

シャプールが横を見ると彼女の横顔もまた沈みゆく夕日に照らされていた。

「ナマエ」

優しい声音と共に、ナマエの左手が優しく攫われた。武器を持つ大きなゴツゴツした掌がナマエの華奢な手を優しく握る。

「俺はこの国の騎士だ。この国の、国王(シャーオ)のために命を使う。いつ、帰れなくなるか分からぬ身だ。」

「はい」

ナマエの顔に、切なさが見え隠れする。政略結婚とはいえ、シャプールがナマエを想うのと同じぐらいナマエもシャプールを想っていた。たとえ国のためや国王のためと言えど、シャプールには生きて欲しかった。

「だが…」

シャプールは繋いでいない方の手で優しくナマエの髪を撫でた。

「お前が苦しむと分かっていても、もっとお前を知りたい。お前の見ている世界を、俺がまだ知らぬ世界を見たい。そのために誓おう。」

いつの間にか夕日は沈みきってキラキラと星が輝いている。まだ夕焼けの名残で少しだけ明るかった。

「命ある限り、お前を愛している。いつこの命が尽きるか分からぬがその瞬間まで愛し続けよう。そしてお前とお前のいるこのエクバターナを守るために戦おう。」

一筋、二筋、ナマエの頬に雫が溢れる。まるで夜空を駆ける流れ星のように浮かんではこぼれ落ちていく。悲しいのか、嬉しいのか、寂しいのか、温かいのか、ナマエにさえ涙の意味は分からなかった。

「だから、お前も沢山お前のことを教えてくれ。俺も沢山教えよう。」

今度は俺が特別なところに連れて行ってやろう。

そう言いながらナマエの涙を拭う手つきは優しい。優しいシャプールの微笑みに、ナマエも笑顔を返した。
ゆっくりと重なる二つの影の頭上でいく筋もの流れ星が散っていった。















一緒に居られるだけでいいと言えなくなったのは、もっと知りたいと思うのは、あなたを愛してしまったから…






BGMはA Whole New World
prev next



back
text(8/4)