最愛のあなたへ、シオンの花束


「おじさん、卵ください!!」

「おう、ナマエちゃんか。あいよ、毎度あり」

懐かしい名前が聞こえてアルスラーンは振り向いた。

「いかがなさいました、陛下?」

「あ、いや、なんでもないよ、エラム」

もう一度チラリと視線を送る。そして茶色の長い髪を揺らして微笑んでいる彼女に目が釘付けになった。記憶にある姿よりはるかに大人びて、少女から女性への階段を昇りつつあったが、彼女の笑顔は昔と変わることがなかった。いつぞや、パルス随一の勇将と頭の中の絵は天才的な宮廷画家がアルスラーンにはすでに心に決めた女性がいるのではないかと話していたことは当たっていた。
一つ下の利発で愛くるしかった少女は、利発さをそのままに美しく成長していた。あれからもう8年の時が過ぎている。それを考えればなんで遠くに自分たちは来てしまったのだろう?

気がつけばアルスラーンはエラムの制止を無視して彼女を追いかけていた。
小さな路地に入って、懐かしい名前を呼ぶ。

くるりと、彼女が振り向いた。

意図せず夜空色の瞳と、エメラルドの瞳が交差した。

















最愛のあなたへ、シオンの花束



ナマエとアルスラーンはエクバターナの街で育った。二人は私塾(リカート)が同じであったのである。私塾へ行って勉強をした後は二人でよくエクバターナの街を駆け回ったものだ。

「おじさん、卵ちょーだい!」

「おー、殿下とナマエちゃんかい?ほら、持ってきな」

「「ありがとう」」

二人でお使いにも行ったし、作ったお菓子を配り歩いたり時には近くの森で木登りをしたり。毎日何をして遊ぶか考え、時には悪戯をして大人たちに叱られることもあった。自分の人生の中であれほど穏やかで楽しかった時はきっとこれからもないであろう、とアルスラーンは思う。

「ねえ、殿下?」

「アルスラーンでいいよ、ナマエ」

「でも…」

自分より年下の彼女の方が身分をよく理解していたのかもしれない。けれど、彼女に距離を置かれるような呼び方をされるのがアルスラーンは嫌だった。

「いいんだ、君だけ特別」

アルスラーンが笑うとナマエも笑って、内緒ね、と言った。初めて二人で持った秘密は、少しくすぐったく感じた。



「アルスラーンはいつか王宮へ行っちゃうの?」

8歳ぐらいの時だったか、いつものごとく二人で遊びに行った空き地で唐突にそう聞かれたことがあった。服の裾を握って悲しそうに、寂しそうに目を伏せた彼女を見て、そばにいたいと思った。

「うん、いつかはね。」

「そしたら、こうやって遊べないの?」

7歳の子供にはもう会えなくなることが耐えられなかったのだろう。大きな瞳に涙が光った。
アルスラーンはどうしていいか分からなくなった。少し悩んで、アルスラーンはナマエを正面からぎゅっ、と抱きしめた。アルスラーンが泣きそうな時、乳母夫婦はよくそうしてくれていたからだ。彼は元々積極的な方ではなかったが、無知であった分このころの方が積極的であったかもしれない。

「大丈夫。僕、必ず会いに来るから。」

「本当?」

「うん、約束する。」

すると彼女は涙を拭いてにっこりと笑った。
さっきまでの泣きそうな顔が、嘘のように…

「約束っ!!」


ふたり笑っておでこをくっつけて約束をした。

けれど王宮に入ればなかなか会うことは出来なくて、その後彼女の姿を見ることはできなかった。アトロパテネで命からがら戦場を脱してから約1年後。王都に戻って何度も彼女を探したが、彼女が見つかることはなかった。






「ある…すらーん、へ、いか…?」

再び交わった瞳はあの頃と変わらなかった。そして、彼女は泣きそうな顔で笑った。笑顔があの頃よりもずっと、ずっと綺麗になったとアルスラーンは思った。

「久しぶりだね」

一歩ずつ、彼女に近づく。あの頃は大して変わらなかった背が、いつの間にか顔一つ分以上の差がついていた。お忍びで街に出るたびに彼女を探した。昔彼女の家だった場所はただの空き家になって、ルシタニアに殺されやしなかったかと気が気じゃなかった。

銀色の髪が、明るい茶色の髪が夕方の風にすくわれる。

「元気、だった?」

「ええ、ええ…」

ポロポロと涙を流しながら笑う彼女に手を伸ばす。

「もう、お会いできないと、思っておりました。」

優しく手を握ると、彼女も手を握り返した。あの日約束した時と同じように額をくっつけて、2人で笑う。話したいことは沢山あるはずなのに言葉が出てこない。けれど、2人にはそれだけで充分だった。
同時に、2人とも感じ取っていた。

「陛下、約束をお守りくださり、ありがとうございます。」

囁くような声だった。瞳に涙を溜めながら、彼女は笑う。その顔はさっきより切なさが混じっていた。きっと自分も同じ顔をしているだろうと、アルスラーンは思った。

城に入って初めて、アルスラーンは彼女の出自を聞いた。彼女は有名な貴族の落胤であったらしい。
視線を交わらせれば、それだけで全て伝わる。彼女と過ごした記憶のある年数は6年ほど。けれど、お互いにお互いが一番大事な存在であった6年だった。

そして、それから8年。
彼は彼女を置いて、ずいぶん遠くまで来てしまった。






「好きだよ」

城に入るその日、二人の秘密基地でアルスラーンは伝えた。もう簡単に会えないであろうことはわかっていた。

「私も、すき。好きだよ、アルスラーン…」

泣きじゃくる彼女の背中を優しく撫でて、抱きしめる。顔を上げた彼女の唇に、吸い込まれるように口付けた。柔らかい感触と、しょっぱい味がそれが現実だと教えてくれる。


「また、会えるから」

「…うんっ…」

「きっとその時も…」



私は
僕は

あなたが好きだよ。



「好きだ」

「好きです、陛下…」

その呼び方が、もう戻れないことを示唆していた。叶っても叶わない恋だと分かっていた。それでも、今この時だけでもいい。この時だけでもいいから互いの存在を確かめて、気持ちを確かめたかった。今この時だけは国王(シャーオ)と町娘ではなく、ただのアルスラーンとナマエでいたかった。

別れた日と同じように、引き寄せ合うように優しく唇が重なる。あの日と同じようにキスの味はしょっぱかった。

王や貴族の結婚は国を左右するほどの価値がある。ナマエはそれを痛いほど知っていた。それでも恋を諦められないから自分のような子供が存在することも、自分のような存在が愛する人の家族をどれほど傷つけるのかも分かっていた。そして、優しいアルスラーンがどれほど困り傷つき、悩むのかも…

アルスラーンもまた分かっていた。王といくら貴族の落胤とはいえずっと町娘として生きてきた少女と結婚することは、彼女を危険に晒し傷つけることだと。


強く、強く抱き合って…

「10、9、8…」

低い声で、数え始める。
あの日もこうした。数えなければ、永遠に離れたくないと思ってしまうから。

「7、6…、ご、よん…」

鼻をすすりながらナマエが数える。


このカウントが終われば自分たちは国王と町娘に戻るのだ。

別れはすぐそこまで迫っていた。



「「3、2、1…」」

2人硬く抱き合って、離れた。
ナマエは涙を拭って笑った。
アルスラーンもまた、鼻の奥がつんとするのを無視して笑った。


「また、会おう」

「ええ、また…」


再び会うことなど決してないことは分かっていた。それでもそう言わなければ笑えなかった。泣いて別れるより、笑ったほうがいいというのは8年前経験済みだった。互いの不恰好な笑顔を彼らは脳裏に刻み込んだ。



2人同時に踵を返して、反対の方向へ歩き出す。

一歩ずつ街の喧騒の中へと2人の男女は消えていった。


アルスラーンが大通りに出るといつの間にか側にはエラムがいた。

「あの、陛下…。よろしいのですか?」

躊躇いがちに尋ねたエラムに、アルスラーンは笑って答えた。

「いいんだ。」

それだけ告げて前を見る。

きっと彼女はどこかで泣いている。夕暮れに染まるこの街のどこかで…

若い国王の瞳から一筋、涙が滑り落ちた。

その涙を掬う秋風に紫苑の花が揺れた。














さようなら、いとしいひと。
たくさんのしあわせを、ありがとう。
ねがわくば、あなたのみらいにさちおおからんことを…


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紫苑の花言葉
「遠方にある人を思う」「思い出」「君を忘れない」「追憶」
参考はこちら

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