鳥籠を望むカナリア
「はっ、ああっ…」
部屋の中に艶やかな嬌声が上がる。女の顔が歪んだ。それを見た男は下品な笑みを浮かべた。
「なんだ、イイのか?」
男の動きに、女は声をあげて応える。
「あなたさま…早くっ」
堪え切れないという顔を浮かべて女が強請ると男は更に乱暴に女を貪った。
一時間後。
彼女の目の前には、動かない男の死体があった。心臓を短剣(アキナケス)で一突き。即死だ。
「シエル」
女は自分の腹心を呼ぶと、入ってきた男は布団ごと死体を抱え上げた。
「顔は潰しといて。布団は後で店の人に用意させるから」
座ったまま女は静かに言った。男はパルスを裏切ろうとしていた豪商で、ミスルと連絡を取り合っていたのだ。
「畏まりました。」
「ごめんなさいね、毎回後始末をさせて」
暗闇の中で女の眉が八の字に下がるのを、男は見た。男と女は7年前からの付き合いだ。
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。ナマエ様にこんなことをさせてしまって。」
男の眉も八の字になる。女はニコリと笑った。男が困った顔をする時、安心させるように女、ナマエは笑うのだ。
「私は大丈夫。」
彼女は諜報部隊の隊長であり、千騎長であり、国王(シャーオ)付きの侍女であり、宮廷芸子であり、関係はないが故大将軍(エーラーン)ヴァフリーズの義娘である。いつかルシタニアの王弟ギスカールのように、両手両足の指の数以上の役職につくのではないか、と密かにシエルは思っていた。多才でなんでもできてしまう彼女は、大丈夫、と言って全て抱え込んでしまう。7年経ってもそれは全く変わらないのだ。
こうして汚れた仕事をし、それを誇りに思うべきだ、と思う彼女が恋を捨てられずに悩んでいるのは知っている。けれど、シエルには彼女を楽にしてやる方法が分からなかった。
「偶には、俺らのことも頼ってください」
悲しそうなシエルの顔を見て、ナマエは切なそうに顔を歪めた。
「ごめんなさい。でも十分よ、ありがとう。」
月光に照らされたその笑顔は女神のよう。けれど、悲しげで…
違う、そんな顔をして欲しいんじゃない。
シエルは失礼します、と言って部屋を出た。
物音一つ立てぬようにして階段を降り、念のため裏口から妓館を後にする。一瞬良く知った2つの気配を感じて、はて、と思ったが、今はそんな事を言っている場合ではない。彼は自分の使命を果たすべく妓館を抜け出した。
一方、ナマエは一つ息をついた。胸がずきりと音を立てたのを、吐息とともに逃がす。
だが、次の瞬間確かに彼女は気配を感じた。手慣れた、気配を消した気配を…
「誰?」
枕元に置いた予備の短剣を握り、低く、鋭い声で呼びかけた。気配は二つ。相当の手練れと見て間違いはなかった。だが不思議と殺気は感じない。
彼女が訝しんでいると、部屋の戸が開いた。
暗がりに向かって刀を翳すと月の光を、白銀が反射した。
その光と蝋燭の淡い光とに、見知った顔が照らされて絶句する。
「だ、ダリューン様っ!?」
漆黒の髪を持った、彼女の上司であり、想い人がそこにいた。
「あ、あのっ、これはっ…」
短剣を放り出し、跪こうとした時…
「っ!?」
腹部に力が入って初めて気がついた。男はナマエのナカで射精していたのだ。
ダリューンの持つ蝋燭の灯りの元、照らされたナマエの姿はただ妖艶なだけではなかった。天の神々すらため息をこぼしそうなほど清廉な空気を纏っている。少なくともダリューンにはそう見えた。だが、その首元には赤い花弁が散り、胸元ははだけ、先ほどまでのナマエの声と合わせてダリューンの嫉妬心をもえあがらせる。
ダリューンは無言のまま彼女に近づくとそっと蝋燭を置き、手を掴み彼女の唇に、己のそれを重ねた。
「んんっ…んふっ…」
激しい、全て奪い尽くすような口づけ。
「な、何をっ…ダリューン、さまっ…」
口づけの合間に、困惑した声をあげ、抵抗したが逃げられない。彼が普通の男であったなら、ナマエにとってそれは造作もないことだったが彼は「戦士のなかの戦士(マルダーンフ・マルダーン)」であり、パルス国最年少の万騎長(マルズバーン)である。また、彼が彼女の上司であることも、抵抗を弱めた原因の一つであった。たとえ、本気で抵抗したとしても逃げられないことに違いはないが…
まるで呼吸まで奪われてしまったかのように息が苦しい。
「やめっ、やめて…くだ、さい…っ!?」
彼の手がナマエの身体を弄る。
鎖骨を撫で、薄い夜着の上から胸を撫でいささか乱暴にその胸を掴む。
「んぅっ!」
先程の男とは違う、武骨で剣だこのある男らしい手。温かくて、ナマエの頭をずっと撫でてきた手。心地よいと感じながらも、そんな仕草にすら感じてしまう我が身の浅ましさと、汚れてしまった罪悪感が彼女の心を焼く。
「おねがっ…します、やあっ」
首を振って制止を促しても、止まらない。
ギュッと、目を閉じた。
堪えた涙が一粒、彼女の頬に伝った。
しかし、彼の行為は突然止んだ。
ゴツッと音がして、ナマエが目を開けるとそこには頭を抱える上司の姿があった。
「黙って帰ろうと思ったが、やはりな。」
声の方を見ると、色素の薄い髪を持つパルスの副宰相兼宮廷画家が真顔で立っていた。呆気にとられるナマエを見てへっぽこ宮廷画家もといナルサスは微笑む。
「すまんな。口を出すべきではないと思っていたのだが、やはり見ていられない事態になったようだ」
そのままつかつかと歩み寄ると、宮廷画家はまるで敵に対して言うような鋭い声を親友に投げかけた。
「ダリューン、お前あの男と同等に成り下がるつもりか?」
ピクリと震えたのはナマエの肩であった。それはナルサスの殺気にであったのか、先程の男を思い出したからか。
「気持ちは分からんでもない。だが、頭を冷やせ。戦は突撃すれば勝てるというものではないだろう?順序をきっちり踏め」
ナルサスはダリューンのそばに落ちていた筆を拾い上げると、ナマエを見た。
「もし、こいつが今みたいなことをしたら、すぐおれの家に来い。何をしてでもな。剣の腕にいささか自信はないが、いまのこいつならなんとでもできるさ。」
ニコリと、微笑んだ。
とは言いながらも、そんなことはないであろうとナルサスは分かっていた。仮に親友が理性を吹っ飛ばし、欲望のままに行動したとしても、彼女が許さないわけはないのだ。
「ダリューン、頼むぞ」
そう言って宮廷画家は職業にふさわしく投げつけた筆を手に、去っていった。
「すまぬ」
宮廷画家が去った後の沈黙を破ったのは、男のその一言であった。
「い、いえ、私こそ…申し訳ありませぬ」
頭を深々と下げたナマエは、嫌な感触を下腹部に感じたが、顔には出さなかった。
「いや、違うのだ…。おれが悪かった。」
ダリューンは唇を噛んだ。胸の苦痛に歪む精悍な顔を彼女は見ていられなかった。彼女の短剣は彼女自身をも傷つける言わば両刃刀なのだ。相手を的確に傷つけ、必要なものを奪い取る半面、それは彼女の心を深く、深く抉る。
「いえ、本当にお見苦しいところをお見せしました。申し訳ありません。」
彼女が立ち上がって部屋を出て行こうとする。
だが、ダリューンはそれを許さなかった。
左手を伸ばし、剣士としては細すぎるほどの彼女の手首を掴むと、そのまま彼女の身体を自分の方へ引っ張った。くんっと、白い夜着に包まれたしなやかな肢体がダリューンの逞しい腕の中に落ちる。
その身体の柔らかさと細さにダリューンは驚いた。ファランギースやアルフリードも確かに線が細いと思う。しかし実際自分の手に抱いた女の身体はやわらかくて、細すぎて、頼りない。壊れてしまいそうだ、とダリューンは思った。
「あ、あのっ、ダリューン様…」
放して、と弱々しく抵抗する身体を抱きしめた。壊れないようにそっと。想いを全てぶつける様に強く。
一方、ナマエは突然のことで頭が真っ白になっていた。
穢れた身体を抱きしめるその腕があまりに逞しくて、力強くて、切なくて、温かくて。
瞳に浮かんだ涙が音もなく流れ落ちた。
いつ、彼を異性として意識し始めたかは分からない。それでも物心つく頃には彼を敬愛し、そしてたまらなく恋い焦がれていた。憧れ、とただの一言では言い表せないほど心を痛め、涙を流し、それでも男を恋、慕ってきたのだ。
その彼が自分を抱きしめている。
もう最後にそうされてから十年近くは経つ。もしかしたら、ナルサス同様彼も妹分がこんな事をするから悲しいのかもしれない。そう、きっとそうなのだ。どれだけ自分が彼を好いていても、恋い焦がれても。
所詮妹でしかないのだから…
穢れた身体なのだから…
「申し訳ありません、このような事を無断で…」
「全くだ」
短く返され、抱きしめる腕に力が篭る。
「知っていたら、やらせなかった。絶対に…」
どんなに恋をしてはいけないと言い聞かせても、切ない掠れた声がナマエの頬を熱くし、胸を締め付ける。苦しむと分かっているのに落ちていく。
まるで、麻薬のよう。
「お前のその肌を名前も知らぬ男が貪ったのかと思うと吐き気がするほど腹がたつ。」
唇が色を失くすほど、形の良い唇を噛み締めたナマエは腕の中で一度動きを止めた。堪えようとしても堪えられない思いが、彼女の口を開かせる。
「なぜっ、なぜ、そのような…」
「なぜ?決まっているだろう。」
俺が、お前を愛しているからだ。
鳥籠を望むカナリアどこにもいかないように。
愛する彼女が傷つかぬように。
自分という鳥籠の中で暮らしていけばいい。
prev next
back
text(8/2)