▼ と或る乙女の福音
血がべっとりとついた剣をナマエは振り下ろした。赤い鮮血はどこまでも毒々しい。
「とりあえず突破したようね」
今のが最後の一人であったようだ。
一度剣を振り血を落とした。再び馬腹を蹴り、彼女は馬を進める。裏切ったカーラーンの軍に囲まれたときは正直危なかった。なんとか切り抜けることができたものの、味方は凡そ500騎ほどだ。彼女に従う百騎長たちも4人が討ち死にを遂げていた。
それでも半数の犠牲ですんだのは彼女の采配のおかげでしかない。ほぼ壊滅状態のパルス軍において、一部隊で半数も生き残った部隊はこの部隊だけだった。
ダリューンと別行動を取っていたのは痛い。
ナマエは唇を噛んだ。
アルスラーンが王宮に入ってから、もう一度彼と会うためにナマエは騎士(アーザーターン)となった。それから手柄を立て、すぐに百騎長になると昨年、最年少の女千騎長が誕生した。ちなみに「戦士のなかの戦士(マルダーン・フ・マルダーン)」という異名を持つ彼は既に万騎長(マルズバーン)であったにも関わらず、国王アンドラゴラス3世への諫言のためその職を取り上げられてしまった。
「此度の戦は、負けるかもしれん」
決戦の直前、ダリューンは言った。
「万が一の時、俺は殿下を連れてナルサスを頼る。」
「私が殿下を護衛致しましょうか?」
黒い髪が風に攫われ、ふわりと揺れた。今は結ばれていない彼女の豊かな黒髪は綺麗であると同時に、まるでそのまま彼女を飲み込んで闇に消えてしまいそうだった。
「いや、お前は千騎長だ。勝手に動かれては困る。」
ダリューンは頭を振った。彼自身が万騎長であったため、人の上に立って指揮するということの大切さは嫌でも身体に染みている。それ故に出てきた言葉と理解した彼女はダリューンの言いつけを守ることにした。千騎長になって、ダリューンの元へ配属されたことはナマエにとって誇りであった。尊敬し、幼い頃からずっと慕ってきたダリューンの指示だ。守らないわけにはいかない。
一方ダリューンの方も血の繋がらないこの従姉妹のことを頼りにしていた。彼の配下の千騎長の中でも彼女は特に優秀であったし、彼の友人ナルサス仕込みのその頭脳にはよく助けられた。
「ナマエ、頼むぞ」
「はい」
そう言うとナマエは踵を返してダリューンのそばを辞した。一礼するのも忘れない。外には彼女のことを待つ百騎長の気配があったのにダリューンは気がついていた。
「いや、おまえが誓ってくれれば充分じゃ」
伯父は真面目な顔で言った。
「おまえにだけは、アルスラーン殿下のお味方をしてさしあげてほしいのじゃよ。おまえひとりで千騎の兵にまさると思えばこそだ」
その後に、ヴァフリーズは苦笑を浮かべた。
「ナマエとおまえは、生きて殿下のお味方をするのじゃ。もっとも、あいつはおまえと殿下のためならなんでもするだろうがな。」
そう言った伯父の目には、少年少女への愛情と敬愛が込められていた。しかし、再び真顔に戻ると、ヴァフリーズは言った。
「できれば、ナマエのことも守ってやってほしい」
「伯父上」
ダリューンが口を開きかけた時、角笛が響いた。伯父は本陣へ馬を走らせる。
ダリューンが伯父の口から永遠にその言葉の意図を聞くことはなかった。
自分の義父がそんなことを言っていたとは露知らず、彼女は敵兵を斬り伏せ、騎士達を鼓舞しなんとか敵の囲みを突破した。敵の追撃を逃れた彼女は振り返って生き残った500人余りの騎士達を見た。彼らの目には疲労と不安が色濃く現れていた。
そんな彼らを三人一組に分け、万が一のために持参していた金貨を一枚ずつ兵士に分け与えると、彼女は口を開いた。
「皆、よく聞いてほしい」
彼女の透き通った、美しい声は少しも張りを失っていなかった。
「私達は此度の戦に負けた。沢山の仲間を失った。もう戦いたくない者は、この話が終わったらすぐ立ち去ってくれて構わない。金貨は取り上げたりしない、それを使って逃げてほしい。」
騒めく騎士達を手で制し、彼女は続けた。
「私はこれから単騎でアルスラーン殿下を捜索する。おそらく大将軍の命を受けたダリューン卿もご一緒であろうが、万が一のことがあってはならないから。」
再び騎士達は騒めいた。
「私もついていきます!」
「俺は御免だ。」
「なんだと貴様っ!」
様々な声が飛び交う中で、「最後まで聞いてほしい」と凛とした声がとぶと、あたりは水を打ったように静まり返った。
「殿下やダリューン様は再起を図るため、おそらくペシャワール城へ向かわれるだろう。あそこにはまだ十分な兵力がある。ゆえに戦いたい者はその三人組のまま、それぞれにペシャワール城へ向かいなさい。これから追撃や残党狩りがあるだろう。そんな中を100騎、200騎で行動していたら捕まえてください、と言わんばかり。私はまだお前達に死んでほしくない。」
一度そこで言葉を切った。騎士達はナマエがどれだけ部下思いであるかを知っていた。だが、今また再びそれを思い知らされている。
「去る者は止めない。三人で相談し、ペシャワールへ向かうか、何処か平和なところで暮らすかどちらか選びなさい。だが、必ず一人で行動してはなりません。その三人は運命共同体だ。そして、必ず生き延びるのです。それが私の最後の命令よ。」
彼女は優しく笑った。
騎士達の答えは、一つだった。
「我ら一同、ペシャワールへ向かいます。」
彼女に一番古くから仕えるシエルが言うと、500人余りの人間が
「ペシャワールへ」
と口々に言った。
ナマエは嬉しそうに微笑んだ。その笑顔があるから、部下たちは絶対に生き残ってやろう、彼女の命令に従おう、と思うのだ。
「分かった。では、全員甲冑を脱げ。そのまま、其々別の道でペシャワールへ向かえ。くれぐれも死なぬよう。」
「千騎長こそ、さっきのが最後の命令だとは言わせません。またペシャワールで我らの指揮をとってください。」
「ええ」
シエルの言葉にナマエはしっかり頷いて、
「ペシャワールで会いましょうっ!!」
と、単身踵を返し馬を走らせた。
もし、彼らが生きていたならバシュル山に隠棲しているナルサスを頼るだろうとナマエは踏んでいた。早く行かねば、合流できない。
途中、何度か敵と遭遇し、その度に斬り伏せては進んだ。
ダリューンか、アルスラーンか、どちらか死んだのではないか。
その不安が彼女に先を急がせた。
どれほど時が経ったか。彼女は山道を器用に乗馬したまま進んだ。ダリューンとは違い、彼女は一度こっそり彼に会いに行ったことがある。その時と同じ場所に彼が住んでいることを祈りながら馬を進めていると、自分の馬のものではない馬の鳴き声が聞こえた。一瞬敵かと思い、ナマエは身を硬くしたが甲冑の音は聞こえない。慎重に進んでいくと、明かりが見えてきた。
どうやら、彼は住処を変えていなかったらしい。
馬から降り、扉を叩こうとしたところで勝手に扉が開いた。
「やれやれ、客人が多いことですな。」
苦笑を浮かべて立っていたのは、ナルサスその人であった。
「ナマエっ!」
嬉しそうなアルスラーンの声が聞こえた。彼女は恭しく一礼する。
「殿下、お久しぶりでございます。ご無事でようございました。ナルサス様とエラム殿も、お元気そうで何よりです。」
彼女は、優しい笑顔を三人に向けてから、黒衣の騎士を見てはにかんだ。
時は過ぎて、パルス歴324年。
この頃の彼女は、まだ心から笑えていた。
と、ナルサスは思う。彼女は表情豊かな、伸び伸びとした女性であった。
だが、あの頃から四年。
彼女が、ダリューンの前で笑えなくなった。
いや、笑ってはいるのだが無理やり口角を上げている、といった感じで違和感しか感じられない。
彼女の恋心には気がついていた。
アルフリードの前ではたじたじとしてしまうナルサスであるが、別に色恋沙汰に疎いわけではないし、この幼馴染は昔ダリューンが好きだとナルサスには打ち明けていた。だが、当の本人であるダリューンは絹の国(セリカ)の美姫と浮名を流したにも関わらず、これっぼっちも幼馴染の恋心を察してやらないのである。いっそ、ナマエが諦められるような態度をとれば良いとも思うのだが、アルスラーンと彼女のこととなるとダリューンはいきなり過保護になるのだ。
「どうしたものか」
ナルサスが呟いた時、来客を告げる声が彼を物思いから引きずり出した。
通せ、といえば入ってきたのは今の彼の物思いの中心となる人物であった。彼女は挨拶もそこそこに本題を切り出した。
「ミスルにヒルメス卿と思われる人物が逃げ込んだよしにございます。また、ミスルにいた銀仮面卿は偽物であったようでございます。」
「相変わらず情報が早いな。ギーヴでもあるまいし毎度毎度、どのような手を使って…」
苦笑を浮かべて彼は彼女を見た途端、全てを察してしまった。彼女の降ろされた長い黒髪の間から覗く白い首筋に、赤い花びらが散っていたのである。おそらくそれを隠すためにわざわざ髪を下ろしてきたのだろうが。
ナルサスは絶句した。
そう、彼女が使っていたのは今まさに冗談で言おうとした、ギーヴの使っていた手口そのものだったのだ。そういえば、彼女はいつも情報を持ってくる時、髪を下ろしていた気がする。
「ナマエっ、お前…」
「なんでございましょう?」
こてん、と首を傾げたその仕草は昔から変わらぬもの。しかし、それが女の仕草に見えてしまったのは彼女の魅力か、ナルサスがそういう風に見てしまったからか…
いかなる時も王を優先し、時には非情にも徹するナルサスがこの時ばかりは非情になれなかった。
立ち上がって葡萄酒の入ったグラスを机に置き、彼女の手をとって立ち上がらせると正面から優しく彼女のことを包み込んだ。いくら長身とは言えどナルサスの腕の中に、すっぽりと収まってしまうほどの小さな身体。改めて感じる小ささと、柔らかさにナルサスは驚いた。ナルサスにとってもこの騎士娘は大切な妹同様なのである。
「すまぬ」
声が掠れた。
ナマエは一瞬身を硬くしたが、すぐにナルサスの背へ手を回した。
「子ども扱いはやめて下さい。全く、殿下といいあなた様といい、ダリューン様といい。私はもう22ですよ?自分の最も有効な使い方くらい分かる年です。」
それでも彼女は笑っていた。
笑っていないとどうにかなってしまいそうだった。知られたくなかったのに、知られてしまって少し安心している自分がいる。その矛盾に胸が締め付けられた。
「ダリューンは…」
「知っていたら、のこのこ私を偵察になんて行かせてくれないでしょう?秘密ですよ」
ナルサスの腕の中から抜け出し、昔、ダリューンへの恋心を教えてくれた時と同じような笑顔でナマエは人差し指を唇の前に立てた。ただ、その笑顔は確実に少女から女へと成長していた。そして、秘密の内容も成長していた。
ああ、自分よりこの娘は遥かに大人びているのかもしれない、と宮廷画家は彼女の成長を頼もしく、悲しく思った。
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