▼ 色褪せた記憶を想う
「アル!早く早く!」
パルス歴316年。王都エクバターナを駆ける少女と少年がいた。振り返って少年を待つ少女の顔に浮かぶのはちょっとの焦燥と疲れと笑顔だった。
「もう無理っ、だよ、ナマエ」
「何言ってるの!もう鐘がなるまでに帰るって約束したじゃない。ほら、急がなきゃ。」
少女は少年の手を取って走り出す。
その手は少年より少しだけ大きいもので、それは少年にとってとても頼もしいものだった。
「ほら、もう少しっ…頑張って!」
二人は私塾の友達と遊んでいたのだが、大体は帰る刻限を忘れて遊び過ぎてしまうのだ。毎日のように2人は全速力で家まで帰る。
「あ、お義父さまっ…」
前をかけていたナマエの顔が一気に青ざめた。約100ガズ(約100m)先に灰色の髪の大将軍(エーラーン)が見えた。今日は戻ってくる日だったのか、とアルスラーンは思った。ナマエはもともと孤児であったが、義父であるヴァフリーズに拾われた後は普段アルスラーンの乳母夫婦の家に預けられている。しかし、戦がなければ一月に4、5回、ヴァフリーズは彼女の様子を見に来て、その日はナマエも家に帰るのだ。その時、アルスラーンはナマエが少しだけ羨ましく感じる。彼女はよくヴァフリーズに叱られているけれど、武芸にも学業においても優秀な娘をヴァフリーズは誇りに思っていたし、不器用な彼なりに愛情を注いでいた。一方、自分の両親が宮廷からアルスラーンに会いに来ることはない。
子供とは愛情に敏感なのである。
「いいなぁ」
思わず溢れてしまった言葉は本音。それを隣の彼女に聞かれてしまったのは当然のこと。
彼女は聡い。
一瞬にしてその意味を悟ってしまった。
ぴたりと彼女の足が止まって、アルスラーンは彼女の背中に鼻をぶつけそうになった。
「行くよ、アル」
今度は走っていなかった。鐘がなる前にと言ったのに、鐘はさっき鳴り終わってしまった。それでも彼女は少し小さい彼の手を握り早足で歩く。まるで鐘の話などなかったかのように…
「ナマエっ、こんな時間までアルスラーン様を連れ回すとは、何事じゃっ!!」
彼女の姿を見た途端、開口一番に怒鳴りつけたヴァフリーズであったがいつもと様子の違うナマエに一瞬たじろいだ。彼女の目には普段からは想像できないような強い光があった。
「お義父様、私とアルを今すぐお城へ連れて行ってください。」
ダリューンは客間で伯父の帰りを待っていた。今から9年前の今日、彼の伯父には義娘が出来た。誕生日が分からないので、拾われた日が彼女にとっての誕生日となり、この日はダリューンも余程の用事がない限りは祝いに来ていた。9つ年上のダリューンに彼女はとてもよく懐いていて、ダリューンもまた彼女をとても可愛がっていた。また彼女はナルサスとも仲が良かった。伯父がアルスラーンの乳母夫婦の家へ迎えに行ってから小一時間ほどだが、伯父と今年14歳になる(何故か彼女は自分の年を憶えていたのに、名前と年齢以外の記憶がなかった)今日の主人公が帰ってこない。
何かあっても伯父と一緒であれば問題ないとは思うのだが、やはり心配なものは心配である。一度、様子を見に行こうか、と思ったところで玄関の扉が音を立てた。
「お帰りなさいませ、伯父上。」
「ああ」
苦虫を噛み潰したかのような伯父の後ろには、大きくなったとは言えどまだダリューンの胸ほどしか背のない少女と、それよりさらに顔一個分ほど背の小さい少年がいた。少女の目元と左の頬は赤くなっている。戦士は片膝をついて、王子を迎え入れた。
「これはアルスラーン様、お久しゅうございます。」
「ダリューン、久しぶり」
まだ中性的な顔立ちの少年は無理やり口の端を上げた。
「ダリューン、客間へアルスラーン様をお連れしろ」
そう言うと伯父は彼女を別室へ連れて行った。後に残された少年は悲しそうに、後悔を含んだ目で俯いていた。
「アルスラーン様、此方へ」
ダリューンもまた戸惑いを隠せなかった。
「僕が悪いんだ」
グラスにそそがれた果汁を一口含むと、アルスラーンが切り出した。
ナマエを迎えに来たヴァフリーズを見て、思わず羨ましいと口にしてしまったこと。そうしたらナマエが城へ乗り込み国王(シャーオ)と王妃に直訴しようとしてヴァフリーズと口論になったこと。乳母夫婦が出かけてしまうから、ヴァフリーズがアルスラーンを此処へ連れてきてくれたこと。帰り道、「やだ、王様と王妃様にお会いするんだ」と言って聞かないナマエをヴァフリーズが叩いたこと。
「ナマエは悪くないんだ。」
くしゃりとアルスラーンの顔が歪む。
必死に涙をこらえようとしている少年に、何をする言ってやればよいか、ダリューンは分からなかった。元々、彼は武術一筋であるからして気の利いたことはなかなか言えない。しかも今回はアルスラーンもナマエも悪くないように思えた。
氷がカランと、音を立てた。
どれほど黙っていたか、やがてダリューンは言葉を選びながら口にした。
「アルスラーン様、確かに国王やタハミーネ王妃は陛下に会おうとなされません。ですが、僭越ながらあなた様には私とナマエ、さらにヴァフリーズもついております。あなた様は一人では、ございません。特に、ナマエはアルスラーン様を本当の家族のように思っております。」
最後に会ったのは、半年前だったか。ダリューンは思い出す。昔は人見知りで引っ込み思案な女の子であったが、アルスラーンと過ごすうちに逞しくなった。いや、少々逞しくなりすぎたかもしれない。だが昔からこうと決めたら梃子でも動かない、それがナマエであった。
「アルスラーン様、ナマエはご迷惑ばかりおかけしているかもしれませんが、何卒あなた様のそばに置いといてはもらえませぬか?」
その言葉にアルスラーンはコクリとしっかり頷いた。そして恐る恐る
「僕は、ナマエとダリューンのこと、本当の兄様や姉様のように思ってる」
と言った。
胸にこみ上げたのは、家族に対する慈しみ。この人ならきっと素晴らしい王になられるだろう。
ダリューンはそう思ってないかも、しれないけど、と付け加えた不安そうな王子の頭を撫でて、跪いた。
「とても光栄です、アルスラーン様」
それから程なくしてナマエとヴァフリーズは部屋から出てきた。ナマエはアルスラーンを見た途端、彼にそのまま抱きついた。
「アル、王様と王妃様がアルを一人にするなら、私がとっちゃう。アルの一番の家族は私なんだから」
こら、アルスラーン様と呼ばんか、というヴァフリーズの言葉をダリューンは目配せで抑えた。
「ありがとう、ナマエ」
その声は震えていた。
その晩は四人で食卓を囲んだ。普段はアルスラーンの乳母夫婦とアルスラーンとナマエだが、今日はヴァフリーズとダリューンという普段とは違う顔ぶれで、アルスラーンとナマエの話が尽きることはなかった。
「と、いうことがあってな」
解散宣言のあと、ナルサスの自宅で二人は酒を呑み直していた。二人ともかなりの酒豪である。
「あれから8年も経つのかと思うと、早いものだな」
葡萄酒を一口煽ってダリューンは呟いた。
出会ったときはこぼれ落ちそうなほど大きい瞳に涙をためていた少女は、今やパルスの中でも有数の剣士であり、美女である。体つきはそれこそファランギースのそれより魅力的だと、以前クバードは称した。
かつて、絹の国(セリカ)の国の美姫と浮名を流したダリューンだから、そこまで色恋に疎いとはナルサスには思えない。それでも小さい頃から知っているがゆえに、対象にならないのか、はまたま気がついていないのか…
けれど、彼女に近づく男に向けるダリューンの目には嫉妬の光が色濃く現れている。
ナルサスは夜空を見上げた。
輝く星々が彼の目には女神が零した涙のように見えた。
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