失う世界の残滓


戦が始まる、とナマエはなんとなく分かった。副宰相兼軍師兼宮廷画家のナルサス卿がいつもより饒舌だった。もともと毒舌家であり、策士であり、国王アルスラーンの師匠様ではあるから口数が少ないわけではないのだけれど。水のように上等な葡萄酒(ナビード)を飲んでいくお世辞にも絵が上手いとは言えない宮廷画家を、ナマエはちらりと見つめた。

アルスラーンに仕える歴で言えば彼女が一番長かった。

ヴァフリーズの義娘であり、アルスラーンが王太子となる前からの付き合いであった。ヴァフリーズがアルスラーンの助けになるよう手を回していたのである。ナマエの方が四つ歳上で、何かと世話をやいてきた。武術においても、学業においてもアルスラーンよりナマエの方がいつも勝ってきた。ナマエは的確なアドバイスをアルスラーンに与え、アルスラーンはそれを受け入れ尊敬の眼差しを送ってきた。主従関係でありながらも、姉と弟のように育ってきた二人は今でも仲が良い。今日もこうして二人の他にダリューン、ナルサス、エラムの五人で小さな宴会をしている。エラムがせっせと酒を割るための果物を剥き、ナマエが食べる分のそれを剥く。アルスラーンの為にナマエが果物を剥くのは昔から変わらない。その尽くす様子や仲の良い様子を見て、周り(特にギーヴやクバード、アルフリード)は彼女を次期王妃であると勝手に定めている。

しかし、当の二人に全くその気はない。かつそんな関係には発展し得ない理由があった。

(分かってはいる、けれど…)

ナイフを握るナマエの手に少しだけ力が入った。戦をする、ということは殺し合いをすることだ。自分が死ぬだけなら、それは構わない。

けれど、今回は不吉でしょうがない。
胸騒ぎは治らない。

今まで目を背けてきたものが、確固たる存在としてナマエの前に立ちはだかっていた。
いくら毒舌宮廷画家が知恵を働かせても、彼とて人知を超えることはできないのだ。

「さあ、夜も更けてきたことですし、この辺りでお開きにいたしましょう。」

ナルサス卿の一声で今日の会はお開きとなった。ちょうどナマエとエラムの手元にあった果物がなくなった瞬間だった。

「そうだね。じゃあそろそろ寝るとしようか」

アルスラーンがグラスに残った最後の葡萄酒を飲み干して、会はお開きとなった。

「エラム殿、片付けは私が。明日は雑務があるでしょう?」

「いえ、俺も…」

「そんなに量もないですから、大丈夫です。」

「エラム、ここはナマエに任せたらどうかな?」

アルスラーンが横から口を挟んだ。エラムは申し訳なさそうな顔をしながら一礼して若い国王の部屋を辞した。

「いつもありがとう、ナマエ」

ナルサスとダリューンも退室し、残されたナマエは机の上を片付け、アルスラーンは横からそれを手伝おうとするのだが…

「いえ、アルスラーン様は座っていてください。」

と叱られて、アルスラーンは苦笑する。

昔は様付けどころか「アルは私の弟なの!」と公言していて、あれやれこれやれとよく家事を教えていた。まるで本当の姉のように世話を焼く彼女が大好きだった。ひ弱に見えたアルスラーンに売られた喧嘩は全て彼女が買って、相手をぼこぼこにしていた。とそんな風な具合だったので、今のような振る舞いはしなくていいとアルスラーンは思っている。しかし、口には出さない。
王太子になった瞬間から、彼女は一線を引くわけではなく、ただ態度を変えた。それは王太子が特別扱いをしすぎてはいけない、ということを彼女なりに教えたつもりだったのだろう。そして彼女なりのけじめだったのだ。周囲が言うように結婚でもしてしまえば、彼女はきっと昔のように接してくれるかもしれない。きっと、毎日楽しい生活が送れるだろう、とアルスラーンは思った。けれど、彼女のことは大切だが、愛してくれなかった両親の代わりに自分を愛してくれた姉のような存在でしかない。
そのことをアルスラーンはよく分かっていた。それよりも、アルスラーンとしては愛する姉と頼りになる歳上の兄のような彼に幸せになってもらいたかった。

「ナマエ、すまない」

いつの間にか背丈は彼女を追い越してしまった。剣も、まだ勝てはしないけれど鍔迫り合いなら負けなくなった。そして、自分は国王で彼女は彼の侍女兼千騎長。本当なら元大将軍ヴァフリーズの娘として現大将軍キシュワードに嫁ぐ、という選択肢もあった。
それでも彼女がここにいるのは国王である自分を守るため、そして…

「いいえ、分かっておりますから。」

彼女の瞳はいつの間にか女性らしさが滲むようになった。
彼女の好きな人はいつだって戦いの最前線に飛び出してしまう人間なのだ。彼が負けるとはアルスラーンもナマエも思ってはいない。しかし、前線で人を斬るということは最も恨みを買うということである。もしヒルメス卿と同じ、或いはそれ以上の人物が彼の前に現れたら…


いっそ、思いを伝えてしまった方が良いのではとアルスラーンが言ったことがあったが、彼女は緩く首を振った。
理由は二つ。
一つは今の関係を壊したくない、ということ。
もう一つは彼女自身に隠さなければいけないことがあること。

二つ目の理由はアルスラーンしか知らぬことであった。




「全て己が悪いのです。」

俯いて自嘲気味に笑う女を、アルスラーンは後ろから優しく抱きしめた。幼い頃、アルスラーンが泣きたい時に彼女はよくそうしてくれていた。誰も見てない、私も見ていない。そう言って抱きしめてくれた体よりも、今は自分の方が大きい。

「それは違うぞ。君は誰より一途で清らかだ。君の一面を知ったってダリューンは…」

「いいえ、彼の目に私は映っていないのです」

アルスラーンの腕にポツリと雨が滴った。それは美しい女神の涙であった。
きっとその頬は真珠のような涙で濡れているのだろう。ただ、その涙を拭えるのは一人だけであった。そして、アルスラーンにできることではなかった。

幸せに、なってもらいたかった。
けれどそれが叶わぬのなら、彼女が疲れた時に休める場所になりたい。

今までの己にとって彼女がそうだったように…


嗚咽を殺して涙を溢れさせる女神と、それを抱きしめてやる弟王を月だけが見守っていた。
彼女の予測した戦が始まるのは、もう遠くない未来であった。