小さな傷の存在証明 | ナノ






 他人に行動を指示する時は、咄嗟であればあるほど、より具体的かつ簡潔な言葉を選ぶべきだ。


 例えば、今にも崩落しそうな段ボールの斜塔の下にいる人物に対し、危急の回避行動を指示する時。無論、対象者の名前を単に叫ぶのは適切ではない。対象者がよほど状況把握能力と反射神経に優れているか、名前を呼んだ時は回避行動を取るよう予め日常的にすり込んでおくなどしない限り、咄嗟に落下物を避けることは火事場の何やらでも難しい。
 また、こうした場面でよく用いられる「逃げろ」という言葉も、最適解とは言えないだろう。簡潔な行動指示のようだが、「何から」「どのように」「なぜ」など、無用な思考を誘発させやすく、具体的な回避行動命令を出すのが遅延する。

 ではどうするのがよいか。
 その一、状況回避に直結する身体的な行動指示を叫ぶ。今回のケースなら「屈め」「伏せろ」「後ろに下がれ」あたりが適当か。他でも「飛び込め」「まっすぐ走れ」「はしごを降りろ」など、対象者の脳内で四肢に伝令させたい単純かつ明確な行動指示を選ぶのがよい。ただしいくら具体的かつ適切な指示を叫ぼうとも、最終的な回避確率は対象者の反射神経に委ねることとなる。
 その二、これは自分のいる位置が対象者と離れすぎていない場合に限る。ただし、それの回避確率を左右するのは対象者ではなく、自分自身だ。




 結論、彼女の楯になるよう斜塔との間に割り込み、頭上後方に回した左腕で落下物の衝撃を受け止めた。
 彼女が息を飲み込んだのと同時に、塔の部品段ボールが他の塔の壁にぶつかりながら着地する。幸い、壁となった段ボールの塔もそれなりに重量を持っていたのか、二次災害は引き起こさず、足元に広がる段ボールの海の嵩が一部増しただけで済んだ。

「……大丈夫?」

 落ちた影響で封が開き、中身らしきビデオテープが段ボールの隙間にいくつか零れ落ちたのを目で追いながら口を開いた。
 咄嗟に引き寄せていた身体をゆっくりと離して、外姿上は怪我がないらしいことを目視で確認する。初めて瞼を与えられた魚のように、彼女はぱちぱちと不安定な瞬きを繰り返していた。
 沈黙の満たす倉庫内、逸る鼓動音が今更聞こえた気がする。視界の端で舞う埃だけが呑気だ。

 とはいえ別に、埃の発生を確認したいわけではない。膝を落として彼女の目線に合わせ、なるべくゆっくりと言葉を発した。

「怪我はない? どこか痛いところとか」

 止めていた息を小さく吐き出して、一拍置いてから彼女はようやく「いいえ」、と掠れた声を出した。そう、とこちらもやっと胸を撫で下ろそうとしたところに、急に時が進んだかのように「そうじゃないですよ」と威勢よく彼女が吠えた。

「ちっ千景さんこそ怪我、怪我は!? 何か重たい物とか入っていたんじゃ……」
「平気だよ。俺の腕はそんなに柔じゃない」
「本当ですか!? 見せてください」

 慌てて散らばる視線は、腐海の一部となった段ボールたちと俺を何度か行き来したあと、すぐに俺の左手でとまった。俺が見るより早く、手首の下を掴まれ奪い取られる。
 確かに左手の甲には、裂傷とも呼べないほどの切り傷ができていた。大方段ボールの角でも擦れたのだろう。僅かに赤が見えるものの、止血するようなものではない。二、三日も放っておけば勝手に治るだろうという俺の推測とは対照的に、監督さんは交通事故にでも遭わせたかのような悲痛さ溢れる表情を浮かべる。

「ああもう本当にすみません……! 手当……、あっ、えっ? 包帯まだあったかな」

 あからさまにわたわたと焦りだした監督さんの手首を、今度は俺が掴んだ。
 今このままの勢いで共有スペースにでも飛び込まれたら、それこそ話が大きく伝播して、俺が交通事故に遭ったことになりかねない。それはそれで面白いかもしれないが、最後に笑うのは密と茅ヶ崎だ。望まぬ展開だが目に浮かぶ。

「ちょっと、監督さん落ち着いて。どう考えても包帯なんて必要ないでしょ」
「でも痕が残ったりしたらどうするんですか」
「残ったら残ったでいいよ。消えない勲章だなんて名誉の中の名誉でしょ」

 そりゃあ監督さんのような女の子なら痕が残ったらまずいだろうが、俺の左手の甲に切り傷があろうがなかろうが、気にするのは監督さんくらいだ。眉根を寄せた彼女の眉間をわざわざ左手の人差し指で伸ばすように軽く押さえてやる。甲斐あって彼女は一瞬顔から力を抜いたものの、「何言ってるんですか」と再度俺の左手を掴んで先ほどよりも少々きつめに睨みを足した。

「駄目です、大切な役者の手なんですから。もう、救急箱取ってくるので待っててください」

 彼女は念を押すように両手で手首を一度握り、あっけなく解放した。足場を探しながら段ボールの海をかき分け、危なっかしい足取りで倉庫を出て行く背中を見送る。あれではまたいつ転ぼうともわからない。
 
 やれやれ、と膝を折り曲げてその場に屈み込む。溜息を吐いたつもりが、出たのは小さな笑いだった。一人分の体温を失った埃臭い部屋の中で、確かに握られた感触の残る手首をなぞる。

 小さく膨れて存在を主張していた血はいつの間にか止まっていた。こんなものでは痕は残らない。彼女は喜ぶだろうしそれならそれで構わない。でもこんな傷なら残っていいと思ったのは冗談抜きの本心だった。舞台で困るというなら莇に消してもらえばいい、彼は彼で怒るだろうが。

 ふと彼女の軽やかな足音が頭に浮かんで、そろそろ彼女が大げさな箱を抱えて戻ってくるかと思い至る。その前にあの入り口付近だけでも道を作らなければ、腕がいくつあっても足りない。いつか消える勲章を抱えた手で肘の骨を鳴らし、雑多に転がる草臥れた塔の欠片を持ち上げた。


小さな傷の存在証明

2021.01.23






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