アンダンテ |
温かな日が差し込む昼下がり。授業を終えて中庭沿いの廊下を歩いていると、見覚えのある小さな背中が見えた。その足取りは速く急いでいるように見えたが、彼の性格からして通常の速度なのだと思われる。 「エスト!」 「……名前、貴女ですか」 ぴたりと足が止まってから振り返るまでの約十秒間。彼は何を感じていたのだろう。きっと教えてもらえないが、決して喜ばれていないのは確かだ。くすりと笑えば、不快そうに眉を顰め「何か用ですか」と早口で聞かれてしまった。 「うん。エストが持ってる東洋魔法薬の本を貸してもらいたんだけど、ダメかな?」 「あれは確か…貴女も持っていたはずでしょう」 「そうなんだけど…不慮の事故で燃やされちゃって、へへ 」 「へへって…図書室にも置いてあるのでは………、もしかして、」 ハッとした表情のエストに頷いた。 ――図書室の利用客といえば、有名な二人がいる。一人はノエル。膨大な量の図書が扱われているあの場所で、検索機能システムはかなり重宝される。だけどそのパルーと喧嘩する唯一の人だ。一体彼らの間に何があったのか……同情する。 そしてもう一人。 「…またユリウスですか。僕が読みたい本も返却していないし、いい加減にしてほしいですね」 「困ったもんだね。悪気がないから特に」 「ええ。彼はもっと周りを見るべきです」 「ところで、エストが読みたい本って?」 ふと気になって聞いてみる。話を遮る形になってしまったが大丈夫だろう。 もし、エストが読みたい本を私が持っていればエストの力になれるのではないか。…いや、力でなくともいい。喜んでもらえるならそれだけで私は嬉しいのだ。人付き合いが苦手な人を好きになると苦労するものだとしみじみ思う。 「【自然属性と気象学】という本です」 「! それ持ってるよ」 「そうですか。……って、何故嬉しそうにするんです」 「だって貸せるよ」 「普通嬉しそうにするのは貸してもらう側の僕でしょう?貸せて嬉しいなんて――」 「え、エスト嬉しい!?」 「は?」 興奮気味にぐいっと詰め寄ると、ポカンとした顔で私を見上げるエスト。 すぐに困惑の表情が浮かんで、眉は頼りなさげに下がる。エストのこの表情が好き…なんて言えば、変態だと蔑まれてしまうだろうか。後ずさったエストを見て切ない気持ちになった。 「よくわかりませんが……貸してもらえるなら、僕も東洋魔法学の本を貸します」 「ありがとう。じゃあ、明日の朝に鏡の前で渡すってことでいい?」 「ええ、構いません。貴女に貸す本は"偶然"手元にあるので、今渡しても?」 「うん、大丈夫」 手元にある本を貸すのにあれだけ渋っていたあげく、偶然と強調されたのは気になるが。まあいい、貸してもらえるのだからハッピーエンドだ。 どうぞ、と差し出された本を受け取ろうとして、……引っ込めた。 「……いらないんですか」 「や、いる。ただエストの手が…」 「は?」 「エストの手…指が、すごく綺麗だなって」 「…なっ……!」 自分の指先に向けられるじっとりとした視線に気付いたのか、勢いよく手を引っ込められる。今さら隠してももう遅い。この目がしっかり覚えているのだ。 大きな手。骨ばった指。それはどう見てもオトコの手で。 ……ドキドキ、しないわけがないのだ。 「………はぁ、ごめん、もう見ないから」 「当たり前です。…ほら、どうぞ」 「ん。じゃあまた明日に」 今度こそちゃんと受け取ってから、なかば逃げるように踵を返した。 ……が。 「名前、」 小さな声で名前を呼ばれた。その声色はいつもと違い戸惑っているように聞こえる。私が振り向こうとしたとき、するり、滑るように手を取られ た。 小さな、けどはっきりとした声。 大好きな人の、エストの声。 指先から、手のひらから。全身に熱が伝わる。体が硬直するのがわかった。 振り向かないままでいると、エストは「そのままで」と蚊の鳴くような声を出した。 ……言われなくとも、動けません。 人付き合いが苦手なエストだ。もちろん接触も許さない、あのエストだ。…ならば、この手は何なんだろう。どんな想いで彼は手を取ったんだろう。疑問とともに、期待している自分がいる。バカめ、どうせ他意はないのだ。だってエストだから。 「……エスト」 私と同じ感情を持ち合わせているわけがない。 「引き止めてすみません」 「うん」 「…あの」 取られている手を、軽く握られる。指がぴくっと震えてしまったけど離す様子はない。息を殺して次の言葉を待つ私の心の中は、疑問と期待と不安でぐちゃぐちゃだった。 「何と言えば良いのかわかりませんが、これだけは言いたくて」 「僕も…好きかもしれません。……貴女の、手」 手の甲をすっとなぞられ、熱を持った手はゆっくりと離された。 とてもじゃないが平常心でいられない。 ドキドキ騒がしい胸を押さえながら振り返ってみると、そこにエストの姿はなかった。 ……言い逃げ、されてしまった。 ふらりと壁に寄りかかり、糸が切れたようにズルズルしゃがみこむ。ずるい。彼はずるい。反則だ…! 明日の朝、まともに顔を見れそうにない。 どうしようもない熱を吐き出したくて長い溜め息を吐いたのだった。 ------------------ 手袋の存在忘れてたーーー!!! |