刹那に生まれ出づ

意識下に無い、とはつまり。
もはや当人の中においては、概念としても存在しない事と同義ではないだろうか。
例えその概念を認知していたとしても、それを忘れ去っていたならばそれは「知っている」と呼べるのか。
忘れ去られたものはその瞬間に存在を失って、また人がそれを思い出した瞬間に再びその存在を発生させるのかもしれない。
思えば、ムゲン牢獄を脱した時も、そんな感覚を得た。
私がその言葉を聞き慣れないと感じたのは、きっとそういうことなのではないかと結論を出す。

「じゃあ、なまえ。次は年明けだな。よいお年を」
「また来年。よいお年を」

防寒具を着こんだ神童と霧野はそう言って部室を出ていった。
ただ私は「はい」と返す。『部活』という組織は上下関係を重んじるものであるそうだから、私も第二学年以上の部員には敬語を使っている。

「なまえ! 初詣、お前も絶対来いよ! よいお年を!」
「初詣、楽しみ。よいお年を」

水鳥と茜も、そう告げて賑やかに去っていった。
私はまた「はい」と返し、その背中を見送る。
初詣……は、サッカー部の女子部員の間で話題に上がり、私も彼女らと共に参拝することとなっった。
現在では葵を伝いに天馬へ話が回り、他の部員たちも参加する運びとなっている。
結局、誰が参加する予定なのか、その全貌を私も把握出来ていない。


現在は年内における雷門サッカー部としての活動の最終日だ。
皆が口々に言うには、「本日でサッカー納め」だと。
既に部活動の予定時刻も過ぎ、号令に従い解散している。
次第に人気のなくなるサッカー棟のロビーで、私は天馬たちが着替え終わるのを待っている。
先程の男子更衣室からは世話しなく話し声が聞こえてきていた。これまでのパターンに当てはめて算出するに、彼らがこちらへ来るまで約10分はかかるだろう。
その僅かな間に何をするか、と思案する間もなく、私はひとつの疑問に思考を費やすこととなった。


『よいお年を』、とは。

まずーー聞き慣れない言葉だと思った。
口にしたことはない。それは確かだ。
今までに聞いたことは。それももない、のかもしれない。
否、仮に聞いていたとしてもその言葉に気を留めることはないだろう。
何故なら私は月日というものを、特別に意識したことがない。
月日は流れる。それ以上でもそれ以下でもない。
私にとっては時間を測るためのひとつの単位であり、基準としての数値に過ぎなかった。

「考え事か」
不意に降りた声に、ふと顔を上げる。
ソファに座っている私を白竜が見下ろしていた。
「ええ」
「何を考えていた?」
白竜は一拍の間を置いて、私にそう尋ねた。
彼の目を見て、応答する。

「……よい年とは何か」
「……よい年」

白竜は表情を変えずにただ私の言葉を復唱した。
不思議と彼にしては、反応が鈍い気がする。

「私だけでは答えを導き出すことが出来ない。故、質問する。白竜、よい年と足りえるその基準は何か」
「よい年と足りえる基準……」

ようやくもって、白竜は緩慢な動作で眉間に皺を寄せた。そして一瞬だけ視線を外すと、眉を僅かに吊り上げる。
思案する様子を見せた後、私に向き直った。

「俺にとっては自分の目標を達成したかどうか、去年と比べてより高みに至れているかどうかだ」
「成る程」
「より究極にということだ」
「より究極に」
「だが」
「だが?」
「そんなものは人それぞれだ」
「……人、それぞれ?」

ああ、と白竜は頷いた。
「誰がどう思おうとそれは関係ない。結局自分が『よい』と思えるかどうかだ」
「…………」
心の中で整理をする。
白竜自身の持つ「よい年」の基準は、私にも理解出来た。具体的な指標があり、それを越えるに至ったかが判断の基準となる。
だが、後者に関しては思っていたより感覚的なもので、理解するには難しい。
人々は自分の一年を『良い』と感じたり、『悪い』と感じたり、考えたり、するものなのか。
……いや、意識下にわからない。
ただこれでひとつはっきりした事は、つまり、現在の私は自身の一年間の良し悪しを判ずることが不可能だということだった。

「この時期になると『よいお年を』と口にするが、それも『貴方自身にとってよいと感じられる年が迎えられますように』……といったところだ」
「……そう」

相手にとっての『よい年』。
やはり、不思議な言葉だ。
個人の中でしか判断することが出来ず、また個人においても場合によって判断が難しい……そんな感覚的なものを彼らは口にしている……。
果たしてそれは……何なのだろう?
祈りか、願望か、注意か、はたまた。

「答えとしては、これでいいのか?」
「……ええ、新たな知見を得ることに成功した。回答感謝する」
「そうか、ならいいが。そろそろ俺も帰らねばならない」

気付けば、男子更衣室の方からの声が近づいてきている。
下ろしていた視線を上げれば、白竜は出入口の方へ体を反らしていた。

白竜の言葉が再び頭に過る。
彼は言った。
己がより高みに昇れているかどうかが、よい年であるかどうかの判断基準だと。
彼はきっとそうやって、止まることはない。彼の放つ技の光がより輝きを増すように、己自身を越えるべく研鑽を募らせていく。
それならば……そう、それも、「よい」のかもしれない。

「白竜」
「ん?」

振り返った彼の、紅色の瞳を見つめる。
巡る血脈の如きその色は私にも鼓動を宿すから。
だから、この何とも言い切れない言葉だって、口に出来るのかもしれなかった。


「よいお年を」


白竜が結ばれた口許をふっと、ほどく。
緩んだ表情筋に不意に目を奪われるなんてことも初めての経験で。


「ああ。お前も。よいお年を」



少しだけ、体温が上がった。



(20.1.15)

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