6.小さな、約束


テンポよく黒板を叩いていたチョークが止まり、降ろされる。

「――今日はここまで。何か質問はありますか」

その言葉と同時に、机上の教科書に限界まで近づいていた燐の頭がびゅんと跳ね上がった。

「初回の授業お疲れ様でした。僕の担当は悪魔薬学ですが、同時に僕はこのクラスの担任でもあります。他の授業や塾の設備など、わからないことがあれば遠慮なく聞いてくださいね」

にこ、と教室内に微笑んだ雪男の視線が燐へと向けられ、細められる。冷たい。冷たい視線だ。燐は思わず近くにあった着物の袖を掴んだ。手のひらが汗ばむ。意外にも雪男は燐に叱責を浴びせることもなく、つと燐の後ろの方へ目をやると、少しだけ微笑み、ため息を吐いて教室を出て行った。燐の背中にだらだらと冷や汗が伝う。

「(なんだ今の反応……不気味すぎだろ……!)」

とんとん、肩を叩かれて隣を向けばにこにこ笑うしえみがいた。自分が掴んでいるものを思い出した燐は慌ててしえみの着物の袖を離す。

「す、スマンしえみ! あっ、シワ付いちまったかも!」
「大丈夫だよ! ちょっと嬉しかったし」

えへへ、と笑うしえみが眩しい。気恥ずかしくなって燐はそっぽを向いた。

「先生の雪ちゃん、かっこよかったね。なんだか大人っぽかった」
「そうかあ……? メガネだからそう見えただけじゃねーの?」
「燐にとってはメガネかけてると大人なの!?」
「そんなことより、マジでびっくりしたわ。まさかしえみが塾に来るなんてな! だって昨日の今日だろ」
「本当はいろいろ手続きが必要なんだけど、雪ちゃんが理事長さんに話を通してくれたの。そしたら理事長さんが、細かいことは後々でいいですよって。よかったあ」
「アイツちゃんと仕事してるんだな……」
「あの子も今日から塾に来たんだよね?」

しえみが興味津々な様子で後ろを振り返る。同じように教室の後方へと目を遣り、人形のような寝顔に燐は目を奪われた。見覚えのない黒い少女。だけれどなぜか親しみを感じるのは、彼女が『朔』だからだろう。名前を聞いて思い出した、燐がせっせと食事を作り続けていた相手。名前が同じだけの別人かもしれないとはなぜか思えなかった。

「(……親父から散々話聞かされてたからかもな)」

それにしても気持ちよさそうに眠っている。手を折りたたみ机に突っ伏して眠る姿が、あの手紙のちょっと間抜けな猫のスタンプと被った。

「ぷっ、」
「燐?」
「あ、」

しえみが首を傾げたのと彼女の眼が開いたのは同時だった。燐は思わず口を両手で塞ぎ、彼女がのろのろと起き上がる様子を見守る。長い髪が一房するりと落ちて白いかんばせに触れた。眠たげな少女の眼が燐に向けられる。春の訪れを感じさせる色味に、燐が見入っている間に、それはまっすぐ燐に近づいて来た。意思も、緊張もなく、実に自然な動作。ただ呼吸をするように静かに、彼女は歩いた。だからこそ、燐の眼前に来て。燐の鼻と僅か数センチの間を空けて。すなわち一歩間違えればキスをしそうなほどの距離に彼女の顔があって、初めて燐は素っ頓狂な声をあげた。

「へぁ!?!!?」
「はわわわわ」
「テメェ神代さんになにしとんじゃゴラァ!!」
「なあ……志摩さんキャラ壊れてへん……?」
「通常運転やろ」

しえみは真っ赤になった顔を覆いながら指の隙間から燐と少女をチラチラと覗き、志摩は机に足を乗せて今にも燐に飛びかかりそうであり、子猫丸と勝呂は志摩の腕を片方ずつ抑えている。少女の奇行に教室内は混乱状態に陥った。

「な、なん、おれ、俺のことすきなん……?」

誰より混乱しているのは当事者の燐だった。

「ハッ!! 違うしえみ!! これは違うんだ!!!」
「来て」
「は?????」

少女が燐の後ろ襟を掴んだと思えば、彼女はその細腕からは到底予測し得ない剛力で燐を椅子から引きずりおろした。燐の頭にクエスチョンマークが飛び交う。まだよく知らない同級生(男)が同級生(女)にずるずると教室外へと連行されていくのを見送る子猫丸の目は、ちょっと可哀想なものを見る目であった。







「ケツ痛ぇ……」

信じられないことに少女は塾を出た後も、空き教室を出て中庭の芝生まで文字通り燐を引き摺り歩いた。階段も何もお構い無しだ。ようやく手を離した少女を軽く睨んで、燐は立ち上がった。睨まれても動じる素振りすら見せず、ゆったりとした動作で彼女は燐の尻を指差す。

「砂」
「お前のせいだよ!!」
「ごめん」
「お、おう……? ちゃんと謝れんじゃん……」
「落とす」
「うぉ!? 叩こうとすんな!! それ絶対痛い構えだろ!?」
「……ごめん」
「……」

わざとやってるんじゃねぇだろうな。そう思って少女を見遣る燐だが、寸分変わらぬ表情に感情を見つけるのをやめてため息をつく。「……いいよ」仕方なしに発した許しに、彼女はそう、とだけ答えた。思わず燐は呟く。

「そう、って、他に言うことないのかよ……」
「……?」
「なんでもねー。独り言だ!」
「ある」
「へ? ある?」
「言うこと」
「言うことがある、って? つか聞こえてたのかよ」

「ありがとう」

何が、と聞こうとして、ひとつ思い当る節があった。彼女は真っ直ぐ燐を見ている。大きな瞳に映る自身は随分驚いた顔をしていた。

「燐の料理、おいしい。だから好き」

彼女はやはり無表情で、何を考えているのか燐にはさっぱり不明だった。だからややこしい言葉の裏なんて読む必要もなく、燐の胸にはただ純粋な言葉だけが届いた。

「なら、また作ってやるよ」

気づけば舌が勝手に動いていた。口を塞いでももう遅い。しかし後悔はせずにすんだ。燐には一瞬だけ、「……うん」彼女の眼が輝いたように見えたのだ。目を擦れば消えてしまったので、やはり錯覚かもしれない。

「肉じゃが」
「ぷっ、ははっ、好きって言ってたもんな! 手紙で!」
「ん」
「いいぜ、また今度な!」
「また、今度」
「おう!」
「ありがとう」

ぺこりと頭を下げると、じゃあ、と言って彼女は行ってしまった。最初はまるで嵐かと思ったのに、去るときは随分と呆気ない。鞄を取りに行くため塾へと歩き始めたところで、結局本題はなんだったのだろう、と燐は考える。

「(お礼のため……か?)」

もしも本当に、礼を言うためだけにあんな暴挙に出たのだとしたら、もしかしたら、神代朔は見た目以上に不器用な奴なのかもしれなかった。



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