2.幕開けは軽やかに


洞窟から出てきた黒髪の少女を見て、誰かが「信じられない」と呟いた。

「あの悪魔をたった一人で倒したというのか」
「……おい、入ってから1時間も経ってないぞ」
「嘘だろ。あんな小さな女の子が……」
「いくら上一級祓魔師だからって、普通におかしいだろ」
「まだ中学も卒業してないって話だ」

「───あれが、“時の番人(グレーヒェン)”」

悪魔の死体を確認しに行った祓魔師が、その様子をこと細かに指揮官へと伝えれば、一層信憑性の増した事実に“時の番人”と呼ばれた少女を褒め称え、怯える声は増加の一途を辿っていく。

その名は誰が呼び始めたのだったか。出処は定かではないが、最初は悪魔メフィスト・フェレスの寵児を嘲るための“時の糸車(グレーヒェン)”であったという。それが意味を変えるまで時間はさほどかからなかった。名誉騎士(キャンサー)四大騎士(アークナイト)聖騎士(パラディン)を除いた誰にも見下ろされない位置に立ったことで、もはや嘲弄は遠吠えにしかならず、蔑称は形だけを残した。いまだに「七光りが」「悪魔信者が」と吐き捨てる輩もいるにはいるが、それはロクな任務につけない下っ端や前線に出ないお飾り上司の囀りである。でなければ縦横無尽に戦場を走る彼女に誰が言えようものか。

悪魔の公爵に魅入られ、単独で『神殺し』を果たした祓魔の天才。ちょこんと指揮官の顔を見上げ報告を行う様は普通の小さな女の子のようで、そのちぐはぐさが周りの祓魔師を酷く動揺させた。彼女はそんな彼等に気付いた様子もなく、報告の後小さく会釈して何も言わずその場を去っていく。

化け物かよ、と誰かが呟いた。

だとしたら、なんて美しい怪物なのだろうか。





だるい……めんどくさい……はやくかえりたい……。

少女は三十路じみた重量感でため息を吐いた。確かにすっかり人間をやめていた頃はある。情緒は長らく息してないし。しかしいまだに米粒ほどの心がないわけでもなし、切れ目なく浴びせられる畏怖や羨望の視線に気付かないほど、鈍くはないつもりだった。指揮官に向けられる嫉妬も然り。今までのように関係ないと切り捨てられれば良かった。実際、親しくもない人間にどう思われようと構わない。割り切ってはいる。

しかし、仕事に支障が出るのは如何なものかと朔は思うのだ。緊急招集を受けて現場に駆けつけるなり、現場指揮官に言い付けられて、腐った神様のいる洞窟に単独で放り込まれた。洞窟の外で彼が他の祓魔師に、「私にすべて任せておけ、だそうだ」と喧伝していたのも知っている。そもそも朔は「指揮を引き継いで来い」と言われてあそこに向かった。つまりあの上二級祓魔師は、あの場では部下のはず。二級だぞ、二級。そりゃ情緒が死んでると噂の神代サンでも怒るってもんだ。まあめんどくさがって指揮権を譲ったのは他でもない彼女なのだが、だってまさか仮にも上級にのぼり詰めた祓魔師があそこまで無能だなんて思わないじゃん?

まったく、この社会は腐っている。人の為に尽くし尽くした神様とは比べるべくもない。

「……」

はたと正気に戻って、手元の黒光りする銃を見る。無意識にメンテナンスを終えていたらしい。一つのことに拘って、目の前のものさえ見えなくなる。この感情は知っている。獅郎がよく喚くような、怒りというやつだろう。新しい感情を知ることができたのだから、あの勘違い祓魔師に感謝しなければならないのかもしれない。嫌だな、と思った。これも覚えのない感覚だった。良い兆候だ。喜ぶべきこと、のはずだ。

……頭を使いすぎた。鼻を噛んだティッシュに怒りと違和感を包んでくずかごへ捨て、背中に刀を、右手に銃の入ったケースを持って朔は部屋を出た。

イタリアに囲まれた世界最小の独立国、ヴァチカン。その象徴とも言えるサン・ピエルパオロ大聖堂の地下に、ここ正十字騎士団本部は存在している。彫刻が踊る柱、所々に見られるステンドグラス、実用性を求め改築を繰り返した日本支部基地とは違う、歴史と誇りを感じさせる造り。メフィストの屋敷も豪奢だが、それより祓魔塾に近いだろうか。

「待て!」

言われなくとも足は止めていた。さきほどから感じていた気配は、ここ3ヶ月で随分親しくなった人のものだったから。さらさらの金髪と燕尾服のように先の分かれた白い服を靡かせる彼は、かつかつとブーツの踵を鳴らしながら早歩きでやってくる。いくら急いでも廊下は走らない。自分にも他人にも厳しい実直さが朔には好ましかった。

それで、彼は何に怒っているのだろう。ぼうっと佇む朔の目の前で、ブーツが一際高く音を鳴らした。

「お前、本当に帰るのか!?」

ああ、なんだそのことか。それよりもあらん限りの力で掴まれた肩がきしきしと悲鳴を上げている。話なら聞くからとりあえず手を離してほしい、という意味を込めて朔はアーサー・A・エンジェルを見上げた。伝わらなかった。

「痛い……」
「あ、すまん」

謝りながら手を離すアーサー。開放された肩に息を吐くと、彼はバツが悪そうに情けなく眉を下げる。朔は目をしぱしぱさせて小さく顔を振った。この犬耳と尻尾は幻影だ。


日本支部に在籍する神代朔は、本部からの指名で3ヶ月だけヴァチカンに勤務することになった。イタリアには滞在せず日本から鍵を使って通うのだ。本部の正式でない方の書状には才能だの実力だの書いてあって、メフィストはめちゃくちゃに渋い顔をした。そりゃそうだろう。魂胆が見え見えである。

神代朔はメフィストが唯一自分の傍に置く祓魔師だ。それを知った本部がまずすることと言えば、大まかに3つ。
その祓魔師が人間側か悪魔側か見極めること。メフィストの情報を手に入れること。ひいては本部のスパイとして雇うこと。

ヴァチカン側に神代朔の情報はほとんど渡ってない。()()()()の旨が記載された診断書を突きつけたばかりである。戸籍だって住民票だってメフィストが法的に用意したブツだ(合法とは言ってない)。そんな状況なので、神代朔を『メフィストの手玉に取られた少女』だと思いこんでしまうのだって仕方のないことだった。あながち間違ってないのが社会の闇といったところだが。

ともかく、彼らは可哀想な悪魔の操り人形を人間に戻してやろうと考えたわけである。
そこで送られてきたのが、アーサー・(オーギュスト)・エンジェルという男。

次期聖騎士(パラディン)と嘯かれる彼の実力を以てすれば、いざというとき、確実に神代朔という爆弾を抑えることができる。それに彼は見ての通り実直で、見目も麗しく、意外と人懐っこく、世話好きで、年端もいかない少女の情を訴えるにはもってこいの人材だ。

思惑通り、アーサーは実に良き先輩祓魔師として朔の手本となり、世話を焼き、共に任務をこなした。朔はすぐに彼を好きになった。おしゃべりで、表裏のない彼はとても付き合いやすい相手だった。アーサーと朔では当然朔の実力が劣るが、それにしたって他の上一級祓魔師に追随を許さぬ活躍ぶりであったし、何より彼らは相性が良かった。

「神代朔。あなたの意思を尊重しましょう。バチカン支部に異動しませんか」

まるで申し分ない。このまま一緒に『相棒』とやらを続けていいと思えるくらいには。


「……ヴァチカンには、残らないのか?」

アーサーが神妙そうな顔をするので、考えるより先に手が出た。両手で頬を挟めば押し出される唇。元が美丈夫だからかなかなか見る目に耐えないものでもない。

「は、はひをふる(な、なにをする)!」
「タコ……」
「は!? わはっははらはなへ(は!? わかったから離せ)!」
「……? もう一回……」
「はーなーへー!」

あ、離せって言ったのか。言われた通りに手を離してやると、息を荒くさせたアーサーは涙目で朔を睨んだ。

「はあ……お前って奴は、相変わらず何を考えているのかわからないな。そういう所はライトニングに似ている」
「………」
「あっ!今のはわかったぞ!すごく嫌そうだった!いやあこの3ヶ月は無駄じゃなかった!」

達成感を得るべきところが間違ってはないだろうか。

「こほん、単刀直入に言う。神代朔、ヴァチカンに残れ」
「残らない」

間髪入れない拒絶の言葉に、アーサーは眉を顰めた。分かっていたろうに。何度問われても朔の答えは同じだ。続く彼の台詞も、いつもと同じ。

「数いる上一級祓魔師の中でも、お前の実力は抜きん出ている。それは上層司令部にも知れ渡っていることだ。お前の才能は計り知れない。あんな島国で燻っているより、お前にはここがあっていると、俺は思う」
「………」
「ヴァチカンに残れ、朔。いや……」
「……?」

何だろう。いつもと違う彼の言葉に、少しだけ戸惑う。
金色の長い睫毛が頬に影を落とし、ゆっくりと開閉を繰り返した。零れる息が、震えている。

「……オレは祓魔(エクソシズム)に誇りを持っている。常に(つるぎ)の前には果たすべき使命がある。だから、初めてだったんだ、楽しいと思ったのは。君の隣で剣を振るえたら、それはなんて幸せなことだろう。俺と一緒に来てくれ、朔」

――なんて情熱的な口説き文句だ。
ついくらりと傾きそうになるのを耐えた。真っ向から浴びせられる熱い視線を、真っ直ぐに見据える。

「ごめん」

アーサーの目が揺らいだ。だが驚いた様子はない。朔の返答を分かっていたのだ。だから彼女は、彼の潤む目をもう一度見据えて、心からの気持ちを吐く。「でも、」

「うれしかった」

それから彼らは互いの手にキスをした。
何も一生の別れというわけでもないけれど。
初めての友だちに、敬意と、友情の証を。






「あなたの意思を尊重しましょう。ヴァチカン支部に異動しませんか」

「……待ってる人が、いるので」


日本に帰れば、窓の外は一面銀世界が広がっている。朔にとって二度目の冬。原作の始まりだ。



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