▼ 16.紅桜篇『終/咲かずに散る花の名を』(2/8)
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「断る。俺がお前と共に行くことはないよ、高杉」
差し伸べた手を振り払われた時、高杉の胸には失望と安堵とがないまぜになって渦巻いていた。
やはりこの人にとっても松陽先生は過去の人間になってしまったのだと思った。かつての師が妄執に囚われぬ毅然とした男であることに心ゆるびつつも辟易した。
そして……にくからず想っている恩師があの喉を掻きむしりたくなる程の怒りを、あの後頭部をカンナでじりじりと削ぎ落とされるような黒い焦燥を、あの腹の内の中で毒蛇の様にのたうち回る憎悪の熱さを知らぬことに、少なからず救われる想いがした。
銀色の影がチラつく。たとえ世界を憎めど弟子が大切に思うものを無為に奪う人ではない、そのくらいは知っている。あるいは銀時よりも長く時を過ごしていれば、この人が戻ってきた時、銀時よりも先にこの人を見つけられていたら……そんな「もしも」に価値なんてものの一切ありはしないが。
「虚……今となっては懐かしい名前だ。まさかお前の口から聞くことになるとは思わなかった。烏の一匹でも手懐けたか、器用なヤツ」
薄皮一枚剥いてしまえば、男は呆気なく頑なに閉ざしていた秘密の帯を解いた。
「吉田松陽はある男の口からその存在を知られ、幕府によって捕われた。だがその首に手をかけたのは幕府じゃあない、銀時でもない、ましてやお前や桂でもない。奴にそれを問うこと自体が全くもって筋違いだ」
惜しげもなく血を吐きながら男の口は止まらない。身を捩って笑うたび、確かに核を貫いたままの刃が角度を変えて肉を抉り、草履のつま先にびちゃびちゃとぬるい赤を落とす。
「生も在らず死も在らず、引鉄はあれど指を掛ける人は己にしか非ず、その弾も玩具とくれば、生くる死せるとて蝸角の争いよ。すると残るは早いか遅いかというだけの話。最初からそうできているから……何の話かって? 俺の愛した親友の話さ」
──虚が生み出した数ある人格の一つ。あなたの師は血に濡れた歴史の中で虚がこぼした、ほんの一瞬の微笑みだったのよ。
高杉にそれを教えた女は、暗に吉田松陽という男を気紛れの奇跡とあらわした。高杉はわずかに瞑目する。ああ、やはり、やはり予想は正しかった──……董榎にとって表は虚の方であり、視線の先にいたのはあんたの親友だった。……
「お前の言う通りだとして、どうせ肉体の生死なんざ意味はねェ……俺達の先生はソイツに殺された。もし先生が奴の干渉に耐えていたんだとしたら、その均衡を崩したのは……とどめを刺したのは俺達だ。虚が、俺達が、幕府が、この世界の全てがあの人を追い込んだ。要らぬ藪をつついて鬼を起こしちまったのさ」
「……そうかもな。吉田松陽は血の螺旋に抗い己のさだめと戦い続けた……人間だった。本人は認めようとしなかったが。アイツの何かと自分を蔑ろにする癖はきっと諦めから来ていたんだろう」
「諦めだと?」
「虚を構成する無数の人格、それが生まれたのは耐え難い現実を生きるためじゃない。擬似的な『死』を見出したんだ奴は。虚はそれほどまでに終わりを欲していた。吉田松陽が異質なのはそこだ。松陽には本来持ち得ないはずの生きる意思と生を慈しむ心があった……お前ら弟子をこの世に産み落としたようにね」
死を営むため産み出されたはずの生を営む異端な人格。存在意義と存在の多大なる矛盾。
「だがな、永遠に戦い続けられる人間がどこにいる? アイツは分かってたのさ、いずれ憔悴し打ち破れ、また新たな己が生まれると。だけど松陽は、幸せだったはずだ。死にたいのではなく、もう死んでもいいと思えるほどに。なあ高杉……」
あいつ、最期どんな顔をしてた? 閉ざした左眼にあの日の光景が蘇る。返らぬいらえに董榎はただ微笑んだ、憎たらしいほどそっくりに。
高杉はしばし胸の悼みに顔を伏せ、「だが」とそれを口にする。
「余計分からねーな。その虚ってのは死を願ってるんだろう? あんたがそいつの願いを叶えてーなら俺の誘いに乗るはずだ。それが松陽先生を救い弔うことにもなるかもしれねェ。何よりだ──あんたの大事なもんに牙を剥いた世界をなぜ憎まない?」
まだその男の全てを詳らか明らかにしたわけではない、だが人ならざる生物の扱いなどもとより問うに及ばず。高杉晋助は確信している。この男には誰より世界を憎む『資格』がある。その資格を振りかざさぬのは、いまさら親友を殺すことに怖気付いたか、この弟子を止めたいからなのか。
「失った先生の命より、虚の苦痛より、教え子の魂よりも、あんたにとってこの腐った世界には価値があるのか」
すると董榎はきょとん、として。それから弾かれたように笑った。
人気のなくなった甲板に明朗な笑い声が響く。けれどそれは高杉は頭の中では少しくぐもっていて、代わりに何か、固いものにヒビが入る音を鳴らしていた。
董榎の片腕が己が胸を貫く凶器を掴んだ。
「赤点だ」
ポキン、と。花の茎でも手折る様に。
「高杉、お前は賢いのにバカだなあ……間違ってる……ああ何もかも違ってる。俺がこんな話をしたのはさ、同情して欲しいんじゃねーんだ、お前を止めてーわけじゃねーのさ、俺はさあ……オマエらが大好きなんだよ、愛してるんだ。だからもしオマエらが思い描く世界になるならそれは俺にとって“イイコト”なんだって……わかるか? 壊そうが守ろうが好きにすればいい。俺だってずっと……俺のために生きてるんだから」
大量の血を吹きこぼしながら引き抜いた凶器に両手をかけて。ひび割れた鋼の悲鳴と、足元に血溜まりと銀色の破片が落ちていくの高杉はただ見ていた。その男は教え子を傷つける事をしない。ソイツはいつだって万人に優しい。もがく人がいれば躊躇なく手を伸ばし、蹲る人がいれば背中をさすってやれる。だが、いつだってそこには壁がある気がしていた。
「高杉」
あの男が誰かの涙に溺れる所を、誰かの苦悩に溺れる所を、只人のごとく世の理不尽に憤る所を見た事がないと気付いたのはいつだったか──どうでもいいから優しいのではないかと思ったのは。
何かが割れる音がした。
「化物は俺が殺す。テメェはそこでただ黙って見てろ」
両手の中からこぼした紅玉の欠片を下駄の歯がぐりぐりと踏み躙る。柘榴を潰したような手のひらと、胸元には真っ赤なアマリリスを咲かせながら、男は記憶の姿のまま笑っている。
「(……俺は何を見ていた)」
足元に広がる無惨な色硝子。美しいだけの神を透き通し、天使の歌声を映していたそれは、今やただの塵と化している。思い込んでいた、信じていた、侮っていた、いや試したかったのかもしれない。この世で一番美しいその人がこことは違う場所にいると、引き返せる所にいるのだと。
だが違った……同じだ。揺らがぬ瞳は美しい。奴の眼には一本の道しか映っていない。歩み始めて幾星霜、とうに帰り道など獣に踏み荒らされなくなっているのだ。
気の、遠くなるような思いだった。
賽の河原に奴はいない、修羅の道に奴はいない、なにせ他ならぬお前自身が──
「……桂が来る」
「………」
「友人は大切にした方がいい。先達の古臭い教えなんかよりもずっとな」
それはそれは矛盾していることだろうが、臆面もなく董榎は言った。
おそらく桂の方を見ているのだろう横顔に、高杉は腰から外したソレを投じた。危なげなく受け止めながらも不意をつかれたような表情が小気味いい。
「……ああ」目元がやわらかく撓む。頭の中で『死んだら渡す』と言ったあの日をなぞっているのだろう。
「とっくに捨てられてると思ってた」
「次俺の手に渡った時は必ず折る」
「死なないよ、俺は。もう知ってるだろ」
「……いつか」
彷徨う手が自身の胸元を掴む。「いつか俺が、」祈るような響きを持っていたその言葉は、けれど中身を零さず呑み込まれる。董榎はゆるやかに首を傾げ言葉の続きを待っている。
ほどなくして開かれた拳は、ぶらりと腰元で力なく揺れた。それから迷いない足取りで距離をつめる教え子に、男は目を見開いて。
「高、……」
鼻梁がすり合い離れていく。吐息がかかる距離。
呆気に取られる奴の胸ぐらを掴み上げ、口元を赤く染めた獣は真っ白な牙を剥いた。
「今更あんたが何を言おうが関係ねェ。俺は俺の道を歩む。遠く見えぬ先の果て、たとえこの手でテメェを殺すことになっても」
「……ふふ……あははっ! ああ、うん、うん──楽しみにしてる」
何度も頷き、肩を揺らし、紅をさした唇が愉快そうに弧を描くのに、高杉は鼻を鳴らして体を離した。董榎はそれをじっと名残惜しそうな眼で見つめると、「じゃあ、」と言って雨を吸った重たげな羽織を翻した。
「なあ董榎」
「ん」
「松陽先生のことどう思ってた?」
「ただの同僚」
またな、高杉。ゆるりと手を振った背中が、ばしゃばしゃと船上の血溜まりを少女のように蹴り歩く。程なくして入れ替わるように現れた旧友に、ぼうっと呆けていた高杉は知らず声を溢していた。
「なあヅラ、あの人──……」
失う覚悟は要らない、そんなものは当たり前の代償だ。どこまでも踊ってやる。あんたの為なら、あんたの世界を壊す為なら。あんたが何を望み、望まなくとも。俺は一片たりとも変わっちゃいない。寝ても覚めても飽き飽きするくらい、目の前にはいつでもただ一本の道が続いている。
そのためにあと何枚、お前のベールを剥がせばいい?
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