刀を交えて花一匁 丙 | ナノ
 13.紅桜篇『壱』(3/4)

少しだけ埃っぽいイグサの匂いに、太陽をいっぱいに浴びた木綿の匂い。ふとあたたかな陽光が頬を差し、桂は薄い布団の上で目を覚ます。
枕と反対の耳には、誰かと話す男の声が聞こえている。締め付けられるような上半身の感覚から、話し声の主は怪我の治療をしてくれたらしい。

満月の見下ろす橋梁で辻斬りに出くわし、背中に一太刀食らったところで記憶は途切れている。
そして顔の知れた攘夷党の党首にこんな酔狂なことをする人物に、おおよそ見当はついていた。

ゆるりと瞬く視界に部屋の様子が映り入る。横向きの箪笥に横向きの暦、古めかしい掛け時計。机は端に少し欠けたような傷があり、座布団もくたびれているようだが、向こうの襖はおろしたてのようにまっさらだ。その襖の前、通話を切った背中が振り向き、ゆったりと近付いてきた。

「ごきげんよう眠り姫、お目覚めはどうだい?」
「……まったく最高の気分ですとも」
「それは重畳」

董榎がカラカラと笑う。記憶と寸分違わぬ変わらぬ笑い方になぜかひどく安心する。腕と肩が苦しいですわとふざけて言えば、おや、と片眉を上げた董榎は、失礼しますと恭しく手を添えて、起こしてくれる。かしこまった仕草がおかしくて吹き出した。傷に響き、呻き声に変わったが。

「それ……また随分と思い切ったじゃないか。男前が上がったぞ」
「ハハ、男の髪に気遣いは無用ですよ」
「そういやなんで伸ばしてんの?」
「決まってるじゃないですか。黒髪ロングの男って今のところキャラ被りないので」
「ああ、断髪イベントもできるしな」

真面目くさった表情の桂に、ポンと手を叩いて返す董榎。恐ろしいほどにツッコミがいない。圧倒的メガネ不足だった。

「喉が渇いてるだろう。水でいいか?」
「いただきます……俺はどのくらい寝てましたか」
「なに、二日と経ってねえよ。傷が浅くてよかったな」
「ここへは董榎殿が?」
「いや。お前を運んできたのは別の奴だが、まあしかしソイツもワケありでな、礼ならこっちから言っておくよ」
「そういうことでしたら、よろしく頼みます。……宿主の布団を借りた上、怪我の治療までお手数をおかけしました。このご恩は必ずお返しします」
「……ええ〜? お前反幕してるくせまァだ真面目チャンやってんの? マジ? 桂ァ俺、これでもお前らの先生なんだけど。子供が保護者に迷惑かけるのは当然でしょーが」
「子供って……あの、俺も奴らもとうに成人してるんですが」
「ばァか、親にとって子供はいくつになっても子供なんだよ。別にお前ら産んでないけど」

そうぼやく彼の傍らに置かれた、上半分が刀傷でざっくり裂けた書物に気づく。
──松下村塾の往来書。
師匠二人の直筆で綴られたそれを、常日頃から着物へ忍ばせていたおかげで、桂は致命傷を免れた。

「(まだ来るなということですか、松陽先生……)」

自分は悪ガキ共を残してさっさと行ってしまったくせに。瞼の裏の後ろ姿に悪態をつくと、振り返る口元には笑みが浮かんでいたような気がする。イチ抜けたと気取った面して、真っ先に夕飯にありつく子供みたいな。憎めない──憎めない人だ。

瞼を上げる。気恥ずかしさと嬉しさに胸が満たされていく。桂が長らく忘れていた感覚を、その男はこともなげに引き出した。まこと恐ろしい人だと思った。柄にもなく感傷に浸ってしまったのも、この男のせいに決まっていた。かつてあの人と肩を並べ教壇に立ち、消息を絶ったはずのもう一人の師。もっとも、男は桂と同じく『取り残された側』なのだろう。

だから、一度去ったことは、幼い友を泣かせたことは、百歩譲って許してやろう。あの薄情な片割れとは違うのだ。当たり前のように帰ってきて、当たり前のように居座り、当たり前のように『子供』と呼び、付かず離れず、手を伸ばせる限りで、支えようとしてくれる。だから、許そう。こちらが大人になって、許してやろう。

「巻き込んでいいですか」

問うた桂に、董榎はただひとつ頷きもせず、もう答えたとばかりに茶を啜り、促すように視線を寄越した。だから桂は微かに笑い、布団の表を撫でながら、夕餉の献立でも話すように語り始めるのだ。

「人斬り似蔵という名をご存知でしょうか」
「似蔵……岡田似蔵か」
「ええ、其奴がいま世を騒がせている辻斬りの正体です。俺のこの傷も奴の手によるもの。……しかし真に恐るるべきは岡田個人ではありません。奴が持つ刀の方です」
「刀?」
「蚯蚓のように蠢く紅色の凶器。刀と呼ぶのも躊躇う艶かしい胎動。そのおぞましさと言ったら、刀の方が人を操っていたと言われた方が納得も行きましょう。もはや刀と呼んでいいものか、あれはそう……」
「まるで生きているようだ、と?」
「ええ」

もともと辻斬りを冠する噂の中には、「刀が生きているようだ」という話もちらほらあったのだ。それを聞いた時は何をと思ったものだが、実際に目にしてようやく意味が分かった。

あれはまさしく生きている。意思を持って血を好み人を食らい、持ち主をも蝕む、生きた兵器。

──妖刀。この世のものならざる力を持つ御伽のつるぎ。そんなものが現実に存在するとすれば、人々に混沌を齎すことは想像に容易くない。

「それで? お前の懸念は何なんだ。人斬りの正体が分かったところで、やることは変わりないと思うが。所詮鉄屑のひとつやふたつ、圧し折ってしまえばいい」
「大言壮語、と言いたいところですが、貴殿の手にかかれば不可能ではないでしょうね。妖刀がたった一本きりであれば」
「複数存在すると? その言い方だと二、三本どころじゃないな」
「いかにも。いわばアレは試作品。便宜上刀と呼んではいますが、刀の形をした兵器と認識してください。そして人には過ぎた力だ」
「あー……分かった。俺たちで兵器工場ぶっ壊そうって話だな?」
「話が早くて何よりです」
「はは、ンなことしたらお前、英雄だな」
「賞金首ゆえ、誰に語り継がれることもありませんが。代わりに一つ二つ土地を野ざらしにしたところで訴えられることもありません」
「コイツを優等生って呼んだの誰だよ」

少なくとも松下村塾の誰かではない。桂とて自分で優等生を名乗った覚えはない。世の中には変わった奴らもいるもんだな、ほんとうにね。

「場所に目星はついてるのか? つーか誰さん家の工場だ」
「時に董榎殿、我々が攘夷戦争に参加していたことは知っておられますか?」
「え、まあうん」
「当時の同士が宇宙で商いをしているのですが、奴が面白いことを言うのです。もう一人の同士が近頃大きな買い物をしたと」
「うん? ……あっ」
「どうも気になって個人的に調べていたのですが、ある辺境の星の小さな鉱山を丸ごと買い取ったのだと」
「………」
「鬼兵隊ってご存知ですか?」
「オブラートに包んでくれェェェ!」
「岡田似蔵は鬼兵隊の一員です」
「もっとAmaz◯nの過剰包装みたいに! お願い!」
「高ピッピと岡ちゃんマブタチらしくてぇ今ソードクラフトにハマってるってマジ男子サイテー」
「サ、サイテー!!」

目をかっ開いた董榎がビタンッ!!と片手で口元を抑えた。錯乱後に時間差で笑いがきたようだ。

「──ゼェ、ハァ、ハァ……」

〜たった今一部映像と音声に乱れがありましたことをお詫びします〜

息を整えた董榎はすくりと座り直り、真面目な顔でコホンと咳払いをひとつ。

「個人ならともかくバックに鬼兵隊とくりゃあな……その妖刀を使ってろくでもないこと企んでるに違いない。桂の言う量産ってのもだいぶ現実味のある話だ。普通に考えたら幕府襲って国家転覆ってところか? 笑えねェな」
「さっき死ぬほど笑って………いえなんでも。妖刀の力は強大です。あれを携えた軍などもはや兵隊ではない、艦隊だ。攻められれば幕府のみならず、戦火は城下にまで及ぶことでしょう。我々が止めねばなりません」
「その通りだが、あまり気負うなよ。長い戦いになりそうだ」
「そうですね……少し落ち着きます」
「ん、いい子だな。で具体的にどうするかだけど、」
「ン゙ッ」
「あ?」
「……………いえなんでも」
「言いたいことがあるなら……え、いい? ……そう? まあいいけど……つまり、悔しいだろうが岡田の方は一旦放置だ。一つ二つ刀を壊したところで向こうは痛くも痒くもない。どころか、こっちの戦力を警戒されて一層慎重になるだろう。俺も岡田と斬り結んだことがあるが、奴の性格的に捕虜にしても得られる情報はない。どうにか自力で拠点を割り出して、直接叩くしかないぞ」
「ええ。その点については先ほど策を思いつきました」
「おお?」
「つきましては董榎殿、俺を匿っていただきたい」
「ほう、その心は」
「桂小太郎はこのまま行方不明ということに。少しは目くらましになるでしょう」
「まさかお前……」
「単独で人斬りの動向を追い、鬼兵隊の活動拠点を探りたいと思います。妖刀の製造拠点を破壊し……かつての同胞を止めるために」

同じ師に学び、共に戦場を駆け、決定的に道を違えた。過激派と穏健派、目的は同じなれど決して相容れぬ派閥の頭領となった今、しかし脳裏に描くのは変わらぬ友の姿だ。共に笑い、語らい、背中を預けあった彼の姿だった。
幻想に囚われていることは知っている。だが刀を向けるには思い出が近すぎた。言葉を介して理解することを諦めたくない。もう一人の友と再会し、年月が経とうと変わらぬものがあると知った今だからこそ。

桂の両眼が董榎を射抜いた。

「董榎先生、俺を手伝ってくれませんか」

董榎はきつく目を閉じ、こめかみを抑える。
返答は桂の予想だにしないものであった。

「先に謝っとくわ……」
「は?」

すまん! と勢いよく立ち上がったその男は、目を見開く桂の前をズンズン横切り、両開きの襖をスパーーーンッと開け放った。

「ワーーッ」
「ちょっ…!」
「ぐえッ」
「く、苦し……」

「お前たち!? どうして……」

雪崩込んできた侍たち。一番下に押しつぶされた白い着ぐるみ。顔にいくつも傷をこさえた者、眉間に峡谷と見紛う皺を刻んだ者、立派な無精髭をたくわえた者、どう見ても堅気ではないゴロツキどもは、見慣れた桂一派の面々である。

「っ桂さん!! 俺たちはそんなに頼りないですか!?」
「は? 何を」
「すみません! 話聞かせてもらいました!」
「その上で言わせてください! あんたバカだ、大バカだ! そこそこ長い付き合いだと思ってましたが桂さん、俺らのこと何にも分かってませんね!?」
「俺たちも桂さんのことそんなに知らないけど!」
「我らの忠誠、舐めないでいただきたい!!」

大の男がピーチクパーチク、雛のように次々口を開く様は見ようによっては滑稽だ。桂は布団の上で目を白黒させ、董榎はゲラゲラ笑っていた。いや笑ってんじゃねえ。

「……攘夷と言っては聞こえはいいが、俺たちは変わりゆく時代に取り残された人間です。故郷を無くした者、刀を捨てられなかった者、戦うしか脳がない者、カビ臭いしきたりに縛られた者、今の政治に反感を持つ者……まるで大海へ突き進む奔流に削ぎ落とされた(かす)のようなもの。そのまま捨てられ、あとは朽ちるのを待つばかりだった」

「そんなこと、」

「けれどそうはならなかった! あなたが拾ってくれたからだ……あなたが大声を上げて、隅々まで探して、いてもいなくても変わらない滓を必要だと言って拾い上げてくれた!」

「あなたがいなければ俺たちはここにはいなかった…! 桂小太郎は俺たちを再び侍にしてくれた!!」

「こう言ってはあなたは怒るでしょうが、俺たちは侍である前にあなたの同胞、あなたの手足です」

「私利私欲、上等じゃあないですか。ここにいるは攘夷党、桂一派。党首がご盟友と会いたいと望むなら、何よりその意志を優先しましょう」


『どうか命じてください。俺たちはあなたの役に立ちたい』


かざされたプラカードは、まさしくこの者たちの代弁であった。

傷をこさえ、皺を刻み、髭をたくわえ、道を歩くだけでも肩を竦めねばならないような、生きづらそうなむさくるしい男たちのこの、純朴な少年のようにキラキラした眼差しに、桂は溜息を吐かずにいられない。
呆れだとかそんなものはその一息で全部出ていってしまって、年甲斐もなく目頭に集まった熱だけがこびりついてとれなかった。

攘夷党とて一朝一夕で進んできたわけではない。ある者は非道な手口を卑しみ、ある者はぬるすぎると憤慨し、ある者は幕府に寝返り仲間を売った。過激派から穏健派に転じると、結成当時の顔ぶれはとんと見なくなった。
何を思ってついてきてくれるのだろう、このバカ者どもは。
時折そう考えることがある。答えは、目の前の光景なのだろう。怒るなどとんでもない。武士(もののふ)を欲する自分に、応え、それでありながら桂小太郎という個人を尊重してくれる彼らに、感謝以外の何を捧ぐものか。

同胞と呼び、手足と呼び、盲信ではなく敬意を捧ぐその姿。まさしく我らが武士道と呼ぶものではないか。

ならば己はどうであっただろう。思い返せば返すほど、過去ばかり見ていたように思う。かつての同胞に憂い、かつての師に浮かれ、死人を想い、現在(いま)を軽んじた。
怒られなければいけないのはこちらの方だ。
この男たちは、男盛りの輝かしい時分までも捧げてくれているのに。

「立て」

だからこそ気を吐かねばならない。
しゃんと背筋を伸ばして、鋭い眼差しで前を向き、誰よりも真っ直ぐ立っていなければ。
時代に捨てられた塵芥が気高く誇り高い生き物だと知らしめるために、バカな同胞たちが真っ直ぐ道をひた走れるように、桂小太郎は誰よりも気高く、何よりも誇り高く生きねばならなかった。

「立てと言っておろう!! 貴様らいつまで人様の家で寝そべっているつもりだ!」
「「「ハ……ハイッ!!」」」
「貴様らの決意、しかと受け取った。だが我らは攘夷志士。我らの集いは不条理を嫌うためにあり、我らの剣は大義なき力を斬るためにある。無辜の民を斬り捨てる行為に大義は無し、これを許すこと罷りならん」
「……! しかし、高杉は桂さんの……!」
「ゆえに、これは攘夷志士桂小太郎から同胞への命令ではない。奴の友人として、お前らの友人として、一人の頼りない男として」

桂は布団を剥いで男たちの前に膝を突き、真っ白な額を畳の目につけた。

「頼む。俺に協力してくれ」

こいつは誰だ。男たちは呆けたように、黒黒とした頭を見下ろしていた。武士の集いにおいて上に立つ者は、罪なき首を刎ねたことを悔いてはならず、善行に個の意志を介入させてはならない。迷いが生じれば組織の意義が揺らぐ。将となるべく育てられた桂小太郎は、誰よりもそのことを知る男だ。やむなく仲間が犠牲になった時も、反発を押し除け穏健派に転じた時も、地球外生物であるエリザベスを迎え入れた時も、毅然と前を向き続けた。

「桂さん」

であるならば、これは。こうべを垂れ地面に擦り付けるこの男は、決して党首などではなく、攘夷獅子でもなく、『恩人』ではなく。
ただの桂小太郎という何者でもない男で、しかし共に長い時を過ごした『仲間』としてここにいる。

「顔を上げてください、らしくもない」
「俺らの仲じゃあないですか」
「まったくあんた、生きにくい人だよなあ」

しょうがない人だと笑いながら、桂に倣って、畳に膝を折る。そろそろと顔を上げた桂は、その景色に昔の影を重ね、驚きに瞬いた。俺といる時はお前はただのヅラでいろ──色褪せない記憶というのは、こうして更新されていくらしい。大事なものが増えていくことに、不思議と恐れは感じなかった。



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