刀を交えて花一匁 丙 | ナノ
 11-1.ミルクは人肌の温度で…それってどのくらい?(3/3)

滴るように甘い新緑の香り。押し付けがましくない青さで鼻腔を突き抜け、黎明の森を思わせる冷ややかな湿り気が大脳に染み込んでいく。人に馴染んだ木の匂いだ。

嗅覚は時に視覚よりも雄弁に本質を語る。光を代償に超人の域まで発達した岡田似蔵のそれは、まばゆい笑顔に隠された混沌の怪物までも白日の元に晒しあげた。

「榎の実散る……」


一閃。

()の前の脅威が膨れ上がり、男は全てを置き去りにした。風を、音を、光を、残酷なほどに甘い残り香を。永遠とも思える刹那があり、1匹と1匹の世界に有象無象の気配が帰る。瞬きすら許されぬ虚空の狭間を超えた場所で、居合の達人は真っ向から敗れていた。


「椋の羽音や、朝嵐」
「芭蕉か? 見かけによらず風流なんだな」

鼻の奥で不快感が塒を巻く。大の字で天を仰いだのも何十年ぶりだろう。下手をすれば子供以来かもしれない。どうにも点鼻薬を挿す気になれず、あえて耳を澄ませてみる。

刃が空気を割く音。気まずげに揺らぐ気配。借り物の刀が立てる鍔鳴りの音。

フフ、と笑いが溢れて、恐らく軽く睨まれた。
乾いた刃を振ったところで落とすものも有るまいに。染み付いた癖は幾多を斬り捨ててきた何よりの証。人の皮を被った獣、彼はそう呼ぶに相応しい。

「どこがナマクラだか。(やっこ)さん現役じゃねェかィ」

そりゃアどうもね。
皮肉か、もしくは揶揄と受け取ったのか、男は釈然としない様子で応えた。名前を問うと、ソイツは董榎とだけ名乗った。
董榎。姓を持たず、刀を持たず、洋装を纏った剣士。その在り方にいまさら異を唱えることはすまい。術を知らず人を殺す為だけに鍛え上げられた彼の剣の腕は、あるいは“あの男”すらも……

「こんなのは初めてだよ……何も見えなかったのに全部見えた。全部見たはずなのに、何も見えやしない」

わずか一秒にも満たぬ透き目、夢を見た。
風を、音を、匂いを、そして一度は諦めた光を得た。

まるで五感を取り戻したような錯覚に、自らの動きを忘れ、ただただ世界を感じ入ることしかできず。ただ目の前の獣が獲物を屠る様を、脳に、魂に、この全身()に焼き付けた。

それは正に。正に神速の剣と呼んで相応しい。

「……参ったねェ、アンタに勝てるビジョンが見えねーや」
「ははは、人斬りの剣じゃ俺は斬れねーよ」
「ほう、なら妖刀でも持ってくればいいのかね」
「刀を変えろなんて誰が言ったァ? アンタが変わるんだよ。こんな仕事やめて真っ当に生きな。そしたら一度くらい斬られてやってもいい」
「ククッ、面白い御人だね。しかしアンタを斬ったら俺は人斬りに戻っちまうよ」
「あー、いやいや大丈夫大丈夫、被害届出さなければ問題ナッシーン」
「それで、アンタは変われたと?」

人斬りを止めるなぞ真っ平御免だ。しかしこの男を殺せるというなら妖刀でも魔剣でも拵えてやろうじゃないか。そうするだけの価値がある。剣士としての己が奴の血を渇望している。

故に、不満を抱かずにいられなかった。こうして殺気をだだ惜しみなく浴びせ、今も虎視眈々と命を狙っている相手に、奴が剣を突き立てることはない。放っておけば己はまた人を斬る。そんなこと、この男もとっくに分かっているはずなのに。

穢れを知らぬ手ならいざ知らず、殺しておけばいいものを。

要はそんな意味を込めて放った問いに、彼はなぜか幼子のように目を瞬かせた。こちらが少し気後れするくらいまるで屈託のない笑みを浮かべると、その大人びた面立ちに無邪気を乗せて、

「変わったよ。見える景色も、(こころ)も。こんな俺にも宝物がたくさんできたんだ。だからさ……──」


誕生日を心待ちにする子供のように紡がれた言葉。


男が剣を打ち捨て去って行った後、薄れゆく意識の中でその記憶に触れる。初めに嗅いだ時の違和感。榎に混じり香る、今までの出会ったどの人間とも違う匂い。人でなければ獣だと思った。だがきっと違うのだろう。アレは獣と呼ぶにはあまりにも、



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