▼ 04.まさかそうくるとは思わないじゃない(2/2)
シュ、シュ、という音だけが簡素な和室に響く。こちらに背を向けた緑色の鬼が台所で包丁を研ぐ姿はたいそう恐ろしかった。俺たちは今からあの包丁で薄切りにされてそこの土鍋に突っ込まれるのだろうか……。
そもそも回覧板を奴にも回覧させようというのが間違いだったんだ。坂田の次に屁怒絽を組み込んだ自治会のエラい人は何を考えているのか。住民登録を許した町長の責任でもある。というかもう回覧板を発案した人がいけない。回覧板とかいう紙束さえなければこんな所来なかったのに、くそっ、グーテンベルクめ。
「いや〜、回覧板ぐらいでわざわざ3人で出向いてもらってスイマセンね〜。ゆっくりしていってください。今軽くつまめるものを用意いたしますので」
つままれる。このままでは確実につままれる。
背中に冷や汗が流れていく。尖兵新八がそっと口を開いた。奴もだらだらと顔に汗を浮かべている。
「…あのヘドロさん? いやヘドロ様」
「いやヘドロでいいですよ」
「あの……さっきすみませんでした回覧板ぶつけちゃって。草履の鼻緒が切れてしまって」
「いやァいいんですよ、事故ですよ事故。それより鼻緒が切れるって不吉の予兆というではないですか。何かよからぬことが起こらなければいいのですが……お気をつけください」
よからぬことをしようとしてる…! 不吉を起こそうとしている……!
こちらをくわっと振り返った文字通り鬼の形相に手の震えが止まらない。新八を倣って俺はそっと口を開いた。
「…あのヘドロ様? いやヘドロ伯爵」
「いやヘドロでいいですよ」
「あの……おもてなししてくれるのは嬉しいんですが、さっき父が危篤との連絡が入りましてすぐ帰らなきゃ……」
「なんですって! どうして早く言ってくれないんですか? あの心配なんで僕も行っていいですか!!」
ついてくるつもりだ! 地獄の底まで付いてきて俺達を危篤にするつもりだ!
またくわっと振り返った顔が怖すぎて3人揃って肩が跳ねた。俺は慌てて首を振る。
「あの……やっぱりいいです。けっこうどうでもいい親父だったんで」
「えっ! そうなんですか……せっかくウチの花をもってお見舞いにいこうと思ったのに…。お葬式の際はぜひウチのお花を使ってください。精魂こめて育てた花なのできっとお父様を極楽浄土へ導いてくれるはずです」
ヘドロは竃の横に置いた鉢植えを手に持って俺たちに見せた。その健気な様子は少なからず心に来るものがあって、新八も同じような感傷を抱いたのだろう、「……あの、」と躊躇いがちに言葉をかける。
「ヘドロさんって……どうしてお花屋さんなんか?」
「ん? ハハ、似合わないでしょ」
「いえ、そーゆう意味じゃ」
「ハハハ、いいんです、自分でもわかってますから。こんな見てくれじゃあね……」
後ろを向き直したヘドロは鉢植えを床に置いた。
「僕はね、花になりたいんです」
「…!」
「昔からこんな外見のために他人から恐がられていたものでね。せめて心だけでも花のようにキレイになりたいと」
鉢植えの前でしゃがみこむ。少しでも花と近くに居られる仕事がしたいとヘドロは言った。
「…でもやっぱり向いてないみたいだ。お客様なんて一人もこないもの。彼と坂田さん達くらいですよ。恐がらずに僕と接してくれた人達は…」
………すいません、メチャクチャ恐いんですけど………………。
しかしこれだけ花を大切に扱う奴が本当に地球征服を企んでいたりするのだろうか。花粉で人々を弱らせているというのもただの考えすぎじゃないか……と奴の印象を改めかけたとき、ふとソレが目に入る。
「………」
「銀さん…ひょっとしてヘドロさんホントはいい人なんじゃ」
新八が言い切る前に腰を上げると、新八と神楽が驚いたように俺を見上げた。刀を構える。
「俺が奴を引きつける。その間にお前らは逃げろ」
「銀さん!」
「アレを見ろ」
竃、鉢植えと来て、また隣に大きな冷蔵庫。2人と1匹暮らしの万事屋よりデカイとはどういう了見だなんでたくさんボタンが付いてんだそれハイテクなヤツじゃねーかS○ARPだろそれ絶対SHA◯Pだろとかなんだかんだと言いたいことは星の数ほどあるが重要なのはそんなトコロじゃねえ世の情け。俺の言いたいことにぱっつぁんも気付いたようだ。
「あれは、ジャンプをしいて冷蔵庫の高さを調節して……?」
「ジャンプはなァ、男たちが夢と冒険に心震わせる本だ、それを……」
怒りのまま刀を振りかざして飛び掛かった。
「あんな使い方する奴にいい奴なんているわけねェェ!」
「何ィィ! その理由!?」
「ヘドロォォォォ! お前に地球は渡さねェェ!!」
刹那、無防備に背中を晒していたはずの鬼が振り向いて研ぎ石を投げる。石は俺の耳のすぐ左を通り過ぎ、ズドンと天井に穴を開けながら空の彼方に飛んで行った。俺は風圧で後ろに倒れ尻餅をついた。
「大丈夫ですか坂田さん? いや〜危なかった……」
鬼は俺の前でしゃがんで小さな虫を指に乗っけた。
「あやうくてんとう虫を踏むところでしたよ。殺生はいけない」
うっ! うわァァァァ!!
「「うっ! うわァァァァ!!」」
耐えきれなくなったように新八と神楽が玄関に向かって走り出した。それを見た鬼が物凄い速さで台所の包丁を掴む。まさか、と思った途端それは鉢植えの前にいる二人に向かって投げられた。そして同時にダン、と床を踏み切る音が耳殻に届く。次の瞬間には人間らしき影が目の前を横切っている。
「────」
何か衝撃的な出来事が起こるとき、その瞬間を小説なんかではよくこう表現する。「まるでスローモーションのように」、と。それだった。まるでスローモーションのよう、だった。黒髪なんてこの町には溢れかえっていて、俺だって新八で見慣れているのに、さらりと風に靡く髪が懐かしいのはどうしてだろうか。横顔の輪郭が美しいと感じるのは。――こんなに心がざわめくのは、どうしてだろうか。
前転で勢いを殺した男が身を起こす。すくりと立ち上がってこちらに背を向けると、包丁を片手にヘドロへと近づいていった。男が近づくにつれてヘドロの緑色の顔が青みを増している気がする。青と緑が混ざると何色だっけ、ええと、あ……青緑……。
「なんでこんなことした?」
「鉢植えを蹴られそうになって…」
「やりすぎだバカ客を殺す気か!!」
その叱責を皮切りに男の説教が始まった。いつの間にかそばに寄ってきた新八と神楽が両側から俺の袖を掴んでガタガタと震え出す。
「ひっ……あの人ヘドロさんになんて口を……」
「絶対怒るアル……滅多打ちアル……」
「ぎ、銀さん、あの人殺されちゃいますよ…!」
しかしヘドロは睨むわけでも手を上げるでもなくしゅんと体を縮こませたままだ。男はその様子を見て説教を止め、ため息を吐く。
「そういう、屁怒絽さんの小さな生き物を大切にするとこ、俺はすげー好きだけどさ」
「は、い……すみませんでした」
「大きな生き物も大事にしてやれるだろ、アンタなら」
「……董榎さーーーん!!」
「あーはいはい、……えっ、な、泣いてる??」
事情を聞き、叱って、理解させ、謝らせて、許して、認める。俺も昔よくやられた叱り方。聞き覚えのある声。見慣れた背中。
「俺も一緒に謝ってやるから、な? だから泣くなよぉ〜……」
涙と鼻水にまみれた般若の顔をタオルで優しく拭き、男は促すようにその背中を叩いた。こちらを、振り向く。
ついに空想が幻覚という形を成すまで頭脳を侵食したのかと思った。
そこには、記憶のままの奴がいたから。
「……!」
男の視界に俺が映る。驚愕に見開かれた両眼。息を呑む音は一体どちらのものだろう。
「…ぎ、」
もし奴にもう一度会えたら、と考えたことがあった。最初は何を言ってやろう。生きていたのか。久しぶりだな。今までどうしてたんだ。お前を連れて行った奴らは何者だ。お前は、何者だ。いろいろ考えて、とりあえず「俺の心労を返せ!」と怒鳴りながら一発殴ってやろうということで落ち着いた。
けれど実際会ってみると、言葉なんてひとつも出てこない。だってあまりに突然だ。頭が真っ白になって、俺は――
「銀時ィィィィィィィ!!」
「…はっ?」
奴が満面の笑みを浮かべながら飛び付いて来たとき咄嗟に受け身を取れず、頭を打って気絶した。ウソだろコイツ十何年経っても自分がマウンテンゴリラであることを自覚してねーとかマジ?正直老けてない云々よりそっちの方が衝撃である。
prev / next