思わず惹き付けられてしまうのは、ただならぬ存在感に気付いてしまったから。簡単に説明できてしまう理由なんて必要ない。というより、不思議なまでの魅力は言葉に例えることができなかった。今まで生きてきた中でこんなにも綺麗なものを見たことはない。それだけで、それだけで。


(プリントを綴じる手も、良いなぁ)


 印刷室から大量の紙を持ち込んでデスクに掛けると、三枚捲ってぱちりと綴じていく。時々隅に追いやられたマグカップに寄り道をして、また紙の山に流れて行く。坂田先生の手は忙しなく動き続ける。甲に浮いた血管のせいか一見荒く見える指先も、よく見れば長くまっすぐで形が良い。ホチキスを握るそれは、女性のとはまた違った滑らかさがあった。


(昨日のペンを回す手も……うまく言えないけどとにかく綺麗だったし、楽器とかやってたのかな。ずっと見ていたいな、なんて)


「……先生、先生!会議の資料はできましたか?」
「教頭先生!す、すみませんもう少しです……」
「はぁ、呆けてる暇があったら仕事して下さいよまったく……いつまで新人気分ですか」
「……すみません」


 禿げかけの頭が嫌味ったらしく奥の席に戻って行く。あぁ、自分が悪いのにこの言い方は大人げない……。自覚の無さに恥ずかしくなってすぐにパソコンに向き直り、文字を入力することに集中する。

 教師になって二年目、こんなに浮かれた頭で大丈夫なのだろうかと思うこともある。ひたすら勉学に打ち込んで念願の教師になったは良いが、急に先程のような業務に支障を来すほどの意識をし始めてしまうのだからたちが悪い。学校という閉鎖的な空間に加えて、今の今までまともに異性と触れ合ったことのないことが原因かもしれないと密かに悩んだ。
 別に異性に興味が無かったわけではない。縁が無かっただけ。ただ悲しいことにそれは今になっても変わることはなく、出会いというものが一体どのようなものなのかと想像が追いつかずに疑問を感じてしまうくらい、無い。坂田先生の一件はそのせいかと思ったけれど、隣のデスクに座る男性教師の手を盗み見ても、特に何にも感じない。


(なぜか坂田先生だけ、なんだよね)


 相手をあまり知らないのにその人の一部に焦がれるなんて。普通こんなことあり得るのだろうか。今時の高校生が見たら大笑い、後に気持ち悪いの大合唱に違いない。
 作業をする坂田先生をまじまじと眺められるのはデスクが遠く離れているからできることでもあった。二人きりで話をしたことはなかったけれど、見ているだけで幸せな気持ちになる。ただ、今は目の前の仕事をこなさなければ。不真面目なことをしていては生徒に示しがつかない。常に正しく公平に。それが私の目指す教師像なのだから。





「先生さァ、ちょっと時間あります?」
「え、あ、私ですか?」
「そうでーす」
「はい。大丈夫ですけど……」
「おーじゃあついてきて」


 よれた白衣が蝶のようにひらひらと揺れて私を誘う。何の用だろう……もしかして、見てたのがバレた?いやそんな、ね。震えているような錯覚を起こす足を奮い立たせ職員室を出ると坂田先生が私を確認して歩き出す。坂田先生にこんなに近寄るのは初めてだ。いや、廊下ですれ違ったことはあるけれど。意外と背が高い。何だか甘い匂いがする。手が、大きい。一人でどぎまぎしながら歩幅の広い坂田先生の背中を追っていると、廊下の端にある扉が開けられる。国語準備室だ。


「いやァ資料の片付けをしようと思ったんだけど如何せん量があって一人じゃ終わりそうにないんですよ。古いのは捨てるって決めたんで紐で適当に結んでくれません?俺がまとめて渡すんで」
「……これって漫画ですよね?」
「資料だって資料」


 積み上げられた週刊雑誌を数冊縛り「こんな感じで」とお手本を渡されると次いでハサミも渡されて、紐を切りながら雑誌をまとめていくことになる。学校に私物を溜め込むなんて、坂田先生は少し不真面目だ……と思いながらも、悪い方に転ばなくて良かったと内心ほっとしていた。


「あれ、先生って今何年目だっけ」
「二年目です」
「あーなるほどね。道理でピチピチしてると思った。だってこないだまで学生だったってことでしょ」
「まぁ、そうですね……」
「いいなァ。俺なんてもうオッサンだし羨ましいね」


 私よりも若い子たちが溢れているこの学校で何を言っているんだと思ったけれど、若さを褒められるなんて滅多にないことだから少しだけ嬉しい。坂田先生は穏やかな空気で次々と会話を進める。自分のクラスのこと、私が教師になる前のこの学校のこと、教頭先生の愚痴。相槌を打ちながら笑っているとあっという間に作業は進んで、気付けばまとめた雑誌を放っていた廊下に山が出来ていた。


「これで終わりですか?」
「うん。こんなもんですかね。教頭に見つかる前に何とかします」
「じゃあ出てるのだけ縛っちゃいますね」
「あー……すんません。ずっと我慢してたんだけど、一本だけ吸って良い?」


 返事を待たずに坂田先生は窓を開け放ち、胸ポケットから煙草を出すと慣れた手つきで火を点ける。喫煙する場合は必ず所定の場所で。教頭先生が口うるさく繰り返していた台詞がふと浮かんだけれど、埃の流れていく窓に煙を吐く横顔と煙草を挟む指先が、すごく綺麗で。まさか目の前で、こんな姿を見ることができるなんて思わなくて。縛りかけていた紐を緩めて、思わず釘付けになってしまった。


「……えっ、何ですか、もしかして苦手だった?消します?」
「あっ、ちが、大丈夫です、あの……手、が」
「……手?」
「……」


 しまった。手が、ずっと気になってました?これじゃ告白じゃないか。何か他の良い逃げ道は。言葉が続かずに黙りこくる私に、坂田先生は「あぁ」と理解したような声を上げて煙草を持った手の平を見つめながら、言い放った。


「欲求不満なんですね」
「……はい?」
「まァ教師なんてムッツリでナンボみたいなとこありますから、良いと思いますよ俺は。むしろ好きですね」


 再び、煙草を咥えて煙を吐く。日常会話で聞いたことの無い単語がこの一瞬の間に飛び交った。それは頭の上でくるくる回りながら、暗に私を辱めているのではないかとの結論に着地する。だって坂田先生、それって、私のことへ、へんたいって言ってるようなものじゃないですか!


「わ、私戻ります!失礼します!」


 上擦った大きな声に自分でも動揺している。余裕が無い。当たり前だそんなの。だって私はただ、手が、って言っただけなのに、それを、その、よ、欲求不満だなんて!ムッツリだなんて!意味がわからない!聖職者にあるまじき発言に混乱を隠せない。でも待てよ、こんな趣味だもの、坂田先生の言うように、やっぱり、私は、私は……!もう、恥ずかしすぎてこの先どう生きていけばいいのか分からない。私は……そういうことなの?

 坂田先生はまっすぐ自分の教室に行ったのか職員室には戻ってこなかった。信じられないくらい深い溜め息が出て、今日の星座占いは最下位だったことを思い出した。散々持ち上げておいて落とすなんてひどい。もう見てあげないんだから。鬱々としているうちに帰りのホームルームが終わるチャイムが鳴ったので、坂田先生に見つかる前に帰ろうと荷物をまとめて職員玄関に向かう。パンプスを出して足を通そうとすると「先生」と呼ばれて振り返った先に、坂田先生が、いた。


「今日はありがとね。今度一杯奢らせて下さい」
「……え」
「それじゃ、お疲れ様です」


 平然と職員室に入っていく坂田先生に呆気にとられていると通りかかった教頭先生が「今日は随分とお早いお帰りですね、まったく……」と嫌味ったらしく呟いて坂田先生と同じ扉をくぐった。
 今度、一杯、奢る?聞き間違いかとぬるく耳に残った言葉を復唱するも正解は分からないし、何よりも今日は色々とありすぎて頭がパンクしてしまいそうだった。家路に就いている最中も、お風呂から上がっても、布団に潜っても、興奮覚めやらない。明日は早朝会議があるのに。明日も、学校に行かなきゃいけないのに。





 週末、坂田先生の奢りのビールを前に私は固まるしかなかった。本当に実現するなんて、社会人の得意とする社交辞令の類いではなかったのか。あんな失態を犯した後なのに、どんな話をすれば良いんだろう。焦りと飲み屋の楽しげな雰囲気に、押し潰されてしまいそうだった。


「ま、今日は遠慮せずにどうぞ。俺の奢りですから」
「ありがとうございます……いただいてます」
「……何か暗いけど、悩み事でもあるんじゃないですか」
「え」
「俺で良かったら聞きますけど。大丈夫、誰にも言いませんから」


 覗き込むように首を傾げる坂田先生はいつもと変わらない。ただ今は真剣に私に向き合っていて、下手に逃れることは出来ない雰囲気を作ってしまうのだから白状しないといけない気になってしまう。長年教師をやってる人はやっぱり違うなぁ。私もいつかは……って、暢気にしてられない。


「いえ、大したことじゃないんで、大丈夫で……」
「大したことじゃなくても溜め込むのが一番良くないんですよ。ホラ、吐き出して楽になりましょうよ」
「……あ……っと……」
「ね?」
「……こないだの会議のことなんですけど……」
「いや違うね、先生はもっと大変な悩みを抱えてますよ。俺の目はごまかせません」
「……」
「そんな固くならずに」
「……」
「……」
「……へ、変な話なんですけど」
「変な話が一番得意ですから安心して下さい」
「……わ、私、その……」


 恐る恐る探るように坂田先生の方を見ると、眉間に皺が寄っている。ごまかせない。うまく乗り切るのは不可能だ。私はこれから捕食される獲物のようで、どこに転んでも闇しか見えない気がする。ここまで来てしまうと、後には引けなくなっていた。


「……よ、欲求不満、なんでしょうか……」


 ……言ってしまった。尻窄みになる言葉と沈黙の間に、そんなに気持ち悪かったのかと不安がよぎったが、坂田先生はきょとんとした顔をした後に口角を上げてずいと身を乗り出してくる。


「……もしかして俺の言ったこと真に受けたの?」
「えっ!?」
「やっぱり、そうなんでしょ?」
「あの」
「先生って……先生って……ぶはっ!」


 口元の震えが止まらない。恥ずかしい、とても恥ずかしい!私は坂田先生に遊ばれていたのだ。この一週間でどれだけ恥を掻いたことか。坂田先生はそんな私を見て大喜びしている。学校では見せないような活き活きとした表情で、アルコールのせいにも出来ないくらい真っ赤になった私にとどめを刺す。


「はーもう、なんつーか、純って言うか、オッサンにはクるもんがあるね」
「も……もうやめてください……本当に、私、もう……」
「いや、男の手が好きって、結構多いよそういう女の人。普通ですフツー。あんま気にしないで」
「……はい」
「まァあんなにたどたどしく手が、とか言われたら俺も少し意識しますけど」


 からかってごめんね。そうグラスを空けた坂田先生はいつもの坂田先生で、解放された私は魂が抜けてしまったように脱力した。ふらふらとお手洗いに逃げ込んで鏡の中に映った自分と目が合えば感情が混ざりに混ざって形容しがたい酷い顔をしていた。洗い立ての冷えた手で顔を叩いて坂田先生の隣に戻ると追加のビールが運ばれていて「今日は楽しい酒ですよ、先生」なんて、もうどうにでもなればいいんです。





「坂田先生は、ご結婚はされてないんですか」
「結婚ねェ、俺ができたらこの世の男どもはみんな結婚してると思いますマジで」
「そんなことないですよ!……っあ、あの」
「ほーんと、先生は優しいなァ。俺こんなに肯定してもらったの初めてですから」


 ぼんやりとした月の下を二人で歩く。坂田先生と歩く。背にした街はいつまでも浮かれていて、どことなく自分たちも足取りが軽くなってしまうのが分かった。
 例の話にはそれ以上触れずにいてくれた坂田先生の身の上話はどこか他所の国を空想しているようなふわふわとした手触りで、それでも質問を投げかけると必ず答えてくれるから心地良い。


「あー明日休みで良かった。俺毎日仕事行きたくねェなぁって思ってるもん。先生もそういう時ないですか?」
「もちろんありますよ。何だかんだで出勤してますけどね」
「勝手に親族殺して休んじまおうかなーとか考えません?」
「それはちょっとやりすぎですよ!せめて仮病とか……いや、社会人としてダメですよね……」
「真面目なんだからァ。ま、そこが先生の良い所でもあるんでしょうね」
「……え」
「ん?」


 自然と繋がれた手の温度に驚いているとゆっくりと指が絡まって、再び頬がカッと熱くなるのが分かった。坂田先生を見上げるもその表情に変化はない。自分たちの歩く音が急に大きく聞こえた。


「……ここって、どの辺ですか」
「駅に向かってるつもりなんだけどね」
「……駅とは逆、だと思うんですけど」
「そうだっけ」
「……」


 引かれる力はそんなに強くない。私でも解けるくらいに優しいものだ。道を一本入ると更に静かな世界に足音だけが響く。坂田先生は少し不真面目だけどしっかりした教師で、私みたいな新米にも優しくて……いくら酔っててもそんなことするはずない、だって坂田先生は常に正しく公平な「ねぇ先生」


「ウチ寄っていきなよ」


 聞いたことの無い真面目な声色が降って来る。今一度坂田先生を見ると真っ直ぐ前を向いたままなのに≪男の人≫の顔をしていて、暗がりの中で艶めいて光る。

 沈黙。

 私はその時、知らない場所でもこの手が連れて行ってくれるなら、怖いものなんてないって思ってしまったんです。





 坂田先生、坂田先生。離れたデスクから小テストの丸付けに勤しむ坂田先生を視界の端に入れると、それだけで心臓が喜びの鼓動を刻むんです。退屈な日常に恵みの雨が零れ落ちるように、真っ白なキャンバスに鮮やかな絵の具を塗り広げたように、世界が色付くんです。なんて、詩人にでもなったみたい。
 心が踊りだすと足も勝手に進み出してしまうものらしい。昼休みの準備室をこっそり覗き込むと、雑誌を広げてくつろぐ坂田先生と目が合った。


「うお、なんだ先生か。どうしました」
「あっ……ごめんなさい、特に用は無いんですけど……」


 坂田先生の顔を正面にすると、あの日のことが鮮明に蘇った。今、自分は大胆にも何をしてるんだろう。一気に階段を駆け上がってしまって、浮かれ過ぎたことを大いに反省したい。やっぱり戻ろうと一歩下がろうとすると、坂田先生は雑誌を閉じて引き出しの中からチョコレートの袋を取り出し、私を手招きした。


「一個だけですからね、あとは俺の」
「……欲張りですね」
「欲張りで結構ですぅーほら、いらないの?」


 魔法の手。その手で私を呼んでくれるなら何だってしたくなる。坂田先生。私変なんです。


「坂田先生」
「うん?」
「……やっぱり何でもないです」
「そういうの一番気になるんですけど」
「はい……すみません」


 ふと微笑んだ坂田先生が開け放たれた窓に向かって小さく呟いた。


「じゃ、また飲みに行こうか」


 坂田先生。坂田先生。
 どこまでも連れて行ってください。その手で。


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