街が薄紫色に溶け出す頃、君の後ろ姿を見つけた。久しぶりだというのにあの頃と何一つ変わらない背中は少しだけ寂しそうで、癖のある髪の毛先を宙に踊らせていた。声を掛けるべきか迷っていると君の隣に小さな影が並ぶ。君を見上げるそのきらきら輝く表情は恋をしている証拠だ。私がいた場所には新しいひとがいた。それだけのことだった。



 君と付き合っていた頃の私はまだ化粧が下手で垢抜けない小娘だった。どこもかしこも大人になり切れなくて君が外で粗相をする度に心臓が張り裂けそうだったのに、酔っ払ってどっからか貰って来た病気のことも許したしうつされてふたりで病院に行った時もお金を出してやったし言い訳も謝罪も黙って受け取って何事も無かったかのような顔をしながら湯船の中でひとり泣いた。
 その罪滅ぼしなのか開いてもいないピアスをプレゼントしてくれたから私は生まれて初めて自分の体に穴を開けた。私には可愛すぎるそれは本当に君が買ってきたものかも怪しかったけれど素直に喜んだし、お披露目できる日を楽しみにしていた。なのに、ピアスホールができる前に君はまた想像の範疇を超えた事態を起こす。君の子供を妊娠しているという女の人が涙ながらに君に縋りつく。玄関先で揉めているのを部屋の隅で隠れて聞いていた。ふたりが外に出て行ってからお揃いだったマグカップを戸棚の奥にしまって、目を閉じた。そんなことをしているうちに気付けば離れ離れだった。

 君と別れてからの私は少し痩せた。髪を短くした。切れた電球もひとりで交換できるし不安に涙を流すこともない。化粧もうまくなって男の人に声を掛けられる機会が増えた。
 今思うとろくでもない男だったね、君は。だらしない生活をしていていつもお腹を空かせていて、女の人とお酒に簡単に呑まれるし、私を振り回すだけ振り回して呆気なく別れを受け入れるような、庇うにも庇い切れない男。でもそれを許すふりをしていた私もろくでなしに違いないから、ふたりはお似合いだったのかもしれない。

 恋人同士でも許してはいけないこともあるって知らなかった。そんな昔の話。



 雨上がりのアパートの階段をうろつく野良猫の欠伸。顎を撫でれば喉を鳴らして気持ち良さそうに目を閉じる、平和の象徴。しゃがみ込む私の元に向かう小さな足音。そっと目線を上げた先の爪先はいつかの私を迎えに来てくれた爪先と同じ。買い物帰りの私を心配して迎えに来てくれたこともあった、遠い思い出。


「あー…まだ、ここに住んでたんだな」


 男と別れたくらいで引っ越すほど私は弱くなかった。その上新しい男を連れ込んで戯れをしたこともある。上塗りされて薄くなって行く君のことをついこないだまで忘れていたのに、女を連れて歩く君を見た時、これまでにないくらい背筋が引き攣ったのはなぜだろう。そしてなぜ、君がここにいるのだろう。素直に「久しぶり」と笑えなかった。声にならなかった。こんなにも、図々しい人間になったというのに。
 良い女になりたくて全てを許してきた。釣り合ってるように見られたくて沢山無理をしていた。でも、そんな私は君の目にはどう映っていたのだろう。私は君を受け止めきれなかったし、君も私をどう扱っていいか分からなかったのかもしれない。ちぐはぐなのは今も昔も同じ。


「近くに寄ったから、まァ、何となく?いんのかと思って、ホラ、ね?」
「うん」
「なんつーか、雰囲気変わったっていうか、ウン。でもすぐ分かったよお前だって」


 毒にも薬にもならない、傷痕に触れないような話を君はしどろもどろになりながらも一方的にした。沈黙が訪れると、君は話題を探すかのようにあちこちに目を泳がせてひっそり苦い顔をした。何かに必死になる君はあまり見たことがなかったけれど、おかしさと悲しさの入り混じった感情に苛まれた私は相槌以外打つ気が起きなかった。


 退屈そうに居座っていた猫が、にゃあ、と鳴いてその場を去ろうとするので、私はついに「それじゃあ、さようなら」と相槌以外の言葉を君に投げ掛けた。すると君は口を薄く開いて何かを言い掛けたけれど、これ以上の悲しみの海に浸る前に逃げ出そうとする私の視界に、君はもう映っていなかった。


 ――君は。急に飛び出してくる動物のように再び私の視界に入って恥ずかしげもなくその場に膝をつき、額を地に擦り付けて「帰ってきて下さい」と言った。今までに聞いたことのない、苦しい声だった。


 ――私は。優しい人でいたかった。全てを受け入れていたかった、愛していたかった。でも、それと同じくらい、散々泣き喚いてやりたかった。困らせてやりたかった。私だけを見てほしかったし、私以外の女に触れてほしくなかった。幼くてしょうもない本当の自分を、愛してほしかった。


 君に聞きたいことは沢山あった。きっと、時間をかけてひとつひとつ向き合わなければならない問題ばかりだ。厄介事を連れて帰るのが得意な君を、もうあの頃みたいに許せる私じゃないけれど、それでも君は。



 眩しく落ちていく夕日が水溜りを輝かせる。一向に顔を上げようとしない君にどうやって手を伸ばすべきなのか、私は決めあぐねていた。



ホールドハンズ(2015/10/21)
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